今日は沖縄慰霊の日である。先の戦争で、国内唯一の地上戦が戦われた沖縄で組織的抵抗が終息した日である。沖縄戦の詳細は他のサイトに譲るが、この季節忘れては為らない幾つかの日々がある。
「沖縄慰霊の日・沖縄特別の日」
「沖縄慰霊の日・平和への願い」
8/6、8/9 そして8/15である。
枇杷の実が色づく季節になると、母が語る思出話がある。
当時、1945年6月の頃、母(現在87歳)は26歳、1歳半の私と生まれて間がない弟との三人暮らしであった。父は二度目の応召で戦地に在り我が家には居なかった。そこへ実家から母の弟が、母子三人暮らしを心配して尋ねてきたそうである。母の弟(私の叔父である)も応召中であり浜松の通信部隊にいたそうだが、休暇で実家にかえり、心配する実家の親の頼みで私たちを尋ねてきたのであろう。
叔父「姉さん、もういかんぞ。米軍の上陸も近い。上陸したら養老山にでも逃げなあかんぞ。」
母「そんなもん、乳呑み児二人抱えて何ともならんで、此処に居る。」
叔父「そんなら、穴を掘ってやるで、落ち着くまで隠れているといいわ。」
そこで、今は廃線となった名鉄大須駅から一時間ほどかけて歩いてきた叔父は疲れも見せずに、母子三人が隠れることができる穴を数時間掛けて堀ったそうである。暑さで流れる汗を手拭いで拭くだけで、井戸水以外には冷たい物も何もない時代であったが、庭の枇杷の木はたくさんの実を付けており、叔父はそれを旨い旨いと食べたそうである。 隠れ穴を掘り終わると軍隊に戻るために、叔父はまた一時間かけて最寄り駅まで歩いて帰っていったそうである。
母は、この話の続きを偶に語る時がある。数日後、隣家の人がやはり心配をして養老山へ逃げる話をしに来たそうである。そこで隠れ穴を見せるとその人はこういったそうだ。「おまえさん、こんな処に一日も隠れとれるものか。暑いし、飲み物も食い物もないし、それに小便はどうする。何より泣く赤ん坊をどうする。」
その時の心情も、決心も、母は何も語らない。乳呑み児二人抱えて逃げようと決めたのか、一人は捨てるつもりだったか、三人で穴に籠もるつもりだったか。聞いたことがないし、聞く気もない。
今から考えれば、降伏すればよい、非戦闘員は殺されない。他にも今どきの知恵がいっぱいある。でも、当時は何も無かった。「鬼畜米英」「一死報国」「生きて虜囚の辱めを受けず」などという洗脳教育の真っ只中に誰もが居たのである。竹槍訓練を今から笑うのは簡単である、でも竹槍に命を託そうとした当時の人々の心情を思いやることはできない、わかり得ない。
8/15を、ただただ騒々しくするコイズミ氏をはじめとする新保守派組の心根が判らないのである。
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