鑑定士の政治団体

【茫猿遠吠・・鑑定士の政治団体・・03.11.07】
 しばらくのご無沙汰でした。この処何かとウツ気味でしたし、記事ネタも乏
しいことから新規記事の掲載を休んでいました。そのウツを倍加させる様な雑
誌記事に出会いました。茫猿自身は直接読んでいませんが、知人(K.A氏)から
ファクシミリを頂いて知ったことです。
 雑誌記事とは次のようなものです。
・週刊新潮-03.10.30号掲載のTEMPOというコラム記事に
  『待った!が掛かった不動産鑑定士「政治団体」』と題する記事です。
 記事中にある鑑政連・横須賀会長発信のファクシミリも受信していませんし、
ことの経緯も新潮記事以上には知りませんから、記事の真偽は不明です。
しかし、ありえるだろうなと思わせる記事ではあります。
 「記事の概要」(週刊新潮-03.10.30号より部分引用)
 10月はじめに鑑定士の間に不穏な動きがあったという。
それは、自民党司法制度調査会検討チームが競売評価制度の廃止も検討してい
ることから、その対応策として「不動産鑑定士事業戦略研究会」なる政治団体
を発足させて政治資金集めを目論んだということである。
 しかし、この団体が陽の目を見ることはなく、10/10には鑑政連・横須賀会
長の指導で解散させられたと、記事は云う。
 首謀者(新潮記事の呼称)は、鑑政連内部の一部の跳ね返りだと云い、裁判所
から競売物件最低価格の鑑定を委託された鑑定士のなかにいると目されるとも
記事は云う。
 記事中の、ある鑑定士の談話では、「最低価格廃止の動きは一部の鑑定士に
とって死活問題、彼等は評価した不動産価格に応じて収入を得るから・・。」
と云う。
 記事は、「既得権という心地良いぬるま湯の中から出るのがよほどイヤだっ
たらしい。」と結んでいる。  (引用終わり)
 この記事を眼にして、茫猿はウツがひどくなりました。相も変わらぬ誤解さ
れている事柄が誤解のままに記事になっていることと、真偽はともかくとして
新潮社が記事にする以上、火のないところに煙は立たないであろうと考えられ
ること、また煙と誤解されるような動きが皆無でないこと、等々です。
 (社)日本不動産鑑定協会会長が、今も政治団体鑑政連会長を兼務していると
するなら驚きだし、誤解ならこれも問題だ。
 裁判所から命令される競売物件の評価報酬は評価額に応じて定められるもの
ではなく、評価物件数に応じて定められるものである。(競売事件の執行裁判
所は指定評価人候補者に評価命令を発して評価人に選任し評価を命ずるもので
ある。したがって、評価人とは各競売事件毎の呼称であり、通常は指定評価人
候補者である。)
 なによりも、郵政公社の民営化が議論され、道路公団の民営化あるいは廃止
が議論される今にいたって、政治団体を結成し政治資金により政治家を動かそ
うとする発想の貧困さというか、感じるある種のオゾマシサである。
 同じ文脈で、鑑政連を強化しようという構想にも、疑問を感じる。
 多くの鑑定士(鑑定業者)が、公的機関(国の機関、地方自治体、裁判所)から
依頼される評価業務に、業務の多くを依存しているのは今も昔も事実である。
地価公示も地価調査も相続税標準地評価も固定資産税標準宅地評価も、まぎれ
もない官需である。
 鑑定士の多くはこれらを公的評価と呼称しているが、依頼者(発注者)が公的
評価と呼称するのは理解できるとしても、報酬を得て評価業務を行う鑑定士が
公的評価と呼称するのには違和感がある。
官公需評価と云うのであればまだしも、公的評価と鑑定士が呼称する背景は公
的責務を前面にうたい評価自体の公益性を云わんとすることにあるようだ。
 このことは、公的評価と民的評価の間に評価自体に差違が有るか無いかを考
えれば自明であろう。正常価格を求める限りにおいて両者に本質的差違はない
はずであり、一方を公的評価と称して特別視する理由はない。
 もちろんのこと、評価報酬の多寡、評価作業スタイル(分科会討議を経るこ
となど)の異同はある。
がしかし、官需について公的評価と呼称する理由は乏しいのである。(公共事
業用地取得に伴う評価や、国公有地の売却に伴う評価は同じ官需であるが、一
般に公的評価とは呼称しない。)
 さらに付け加えれば、地価公示や地価調査等の社会に与える影響の度合い、
責務の重さ等を考えれば、それらを公的評価と云うことが全く理解できない訳
でもない。
 長々と公的評価論を論じましたが、官需に育てられ支えられてきた多くの鑑
定士にとって、官需の激減は死活問題であることは云うまでもないことです。
しかし、だからといって、政治家頼みに走ろうとするのでは、鑑定士の矜持は
何処に忘れてしまったのであろうか。
 時代の変遷とともに、鑑定評価需要の在り方が変わるのはやむを得ないこと
である。その時代の変化に姑息で陳腐な手段で抗しようとする姿勢が何とも遣
る瀬無いことである。どのような業種業務も社会の需要があってこそ成り立つ
ものであり、社会状況の変化に応じて需要が衰退すれば、それは抗し得ないこ
とである。
 もちろんのこと、座して需要減少を待つのみが鑑定士の唯一の方策ではなか
ろう。新規の業務開拓や需要開拓や鑑定評価の有用性・有益性を社会に提案し
て行く姿勢こそが待たれるものである。
 このことは建前論だと云われるでしょう。綺麗事と云われるでしょう。
しかし、よくよく考えてみれば、鑑定評価の世界はある種の建前論が前面に存
在する世界ではないでしょうか。というよりも、建前論を堅持してゆくことが
求められる世界ではないでしょうか。
 鑑定評価で求める正常価格というものについて、様々な議論が今もあります。
正常価格について、茫猿はこう考えます。
正常価格とは不動産鑑定基準に示す前提条件のもとで、不動産鑑定士がその全
人格をかけて表明する判断であり意見である。
この表現には様々な異論があるでしょう。
 でも、茫猿はこう考えます。
的確な価格形成の場を持たないか、あっても不十分な市場しか得られない不動
産の特性故に、鑑定士の活動が求められるのであり、いわば壮大な建前論にて
形成される鑑定評価の世界ではないでしょうか。それは個々の取引で価格が形
成される不動産市場とは明確に一線を画すものでしょう。
 こんなことを云われた経験はありませんか、「この価格で買えますか、売れ
ますか、貸せますか、借りられますか。」
 であればこそ、現実のなかでも建前論を大切にし、矜持を保ちたいと願うの
です。こうは言えないでしょうか。
『本音はあるよ、ダケドそれをイッチャー、オシマイヨ』
『わからんでもないが、ソコマデヤルカ』
『出るに出られないぬるま湯は、やがて冷めゆき、風邪か肺炎か』
『心地よきぬるま湯も、やがて沸きゆく、ゆで蛙』
 ・・・・・・閑話休題・・・・・・
 秋が深まりゆき、月がきれいです。旧暦では今頃が仲秋か、
柿も赤みを増し甘くなり、酢橘や柚子は色付き始めました。
 夜なべ仕事に適した季節ですから、夜な夜な鉄道工事に励んでいます。
柳ヶ瀬の灯が、とても遠いことです。
一度敷設した線路を引き剥がし、新しい計画線を敷設する。
街造りをし、村造りをし、客車や家屋に照明を灯し、
鎮守の森も造ったし、木造橋も架けたし、
0系、100系の新幹線を運行させる改良工事は難物です。
(車軸幅は同じなのですが、車体幅が大きいので、直線走行は問題ないのです
が、線路曲線率や側壁等が運行の障害になるのです。)
そのうち、サイトに成果を掲載します。

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