正月とフクロウ

【茫猿遠吠・・正月とフクロウ・・05.01.04】
 新年明けましておめでとうございます。
皆様の新年は、いかがお迎えでしょうか、
昨年の度重なる台風や地震被害で正月どころではない方々、
家族やご親族が東南アジア旅行中で、ご心配な方々、
 まずは被災者の皆様にお見舞いを申し上げます。


「正月とフクロウ」
 フクロウとは梟のことです。正月らしく「福楼」としゃれてみましょうか。
ローマ神話の世界では、知性と学問の女神「ミネルバ」のシンボルとして、また幸福を呼ぶ鳥として愛されています。学術書など専門書籍出版社ミネルバ書房のマスコットがフクロウであることも、これに由来します。
 またお祝い事の引き出物や記念品にフクロウのレリーフなどを使われることが多いのも、このことに由来しているのでしょう。
 さて、梅原猛先生やiNetからの孫引きですが、
哲学者ヘーゲルは『ミネルバのふくろうは、黄昏(たそがれ)とともに飛びはじめる』と云い、あらゆる学問のうちでも、『哲学=ふくろう』は総合的で最高の学問として最終的に到達すべきものであると記述しているそうです。
 そして混迷を深める2005年(21世紀)こそは、哲学の出番であると、梅原先生は云われます。
 茫猿は哲学の出番などと高邁なことを申し上げる力はございません。
しかし、表面的な事象やハウツーに振り回されることなく、真理とか哲理というものに、改めて思いを致すべき時期なのではなかろうかと思います。
茫猿にとっては「見えないものに思いを(福井達雨先生)」ということであり、
「負け続けることに賭ける(久野収先生)」ということなのでしょうか。
「頑張ろうと声掛けるのは程々にしよう」
 頑張って下さい、頑張ってと、気安く声掛けることが多い。
けれども、十分頑張っている人にとっては、頑張りが足りないと叱咤されているようで、激励よりも非難と受け取られることも多いと聞きます。
 「頑張る」の語源は「眼張る(目をみはる)」或いは「我張る」だそうで、頑張るは当て字だそうです。つまり、元々は我意を張り通すとか、見得をきって目を張ることを指すものであり、「どこまでも忍耐して努力する。」というのは後々に加えられた意味のようです。それも明治期の戦いに出征する兵士への激励として多用されたのが始まりのようです。
 そういった来歴を考えれば、「私は頑張って支援しますから、あなたも気を落とさずに希望を持って下さい。」というように、自分の決意を云うのはともかくとして、相手に「忍耐や努力」を強いるものではなかろうと思います。
特に病人や失意の淵にいる人には禁句とも云えます。
 なぜ、正月早々に、このようなことを申し上げるかといえば、
私たちは頑張り過ぎているのではなかろうかと思うからです。
昨日より今日、今日より明日と向上を目標とすることは、悪いことではないでしょう。
しかし、限られた地球資源、増加を続けることのできない世界人口、エネルギー消費も資源量からや地球温暖化から限界があるのは明らかであり、頑張り続けることが果たして真に善なのか否かが問われているのが21世紀なのだと考えます。
 短期的、ミクロ的には、日本人口の小子高齢化、人口減少化、高負担低福祉化、消費税率引き上げなどが目前です。それらを思えば、今日より明日という従来型の展望が持てず、そのことが閉塞感につながってしまっているというのが、団塊ジュニアなどの現状ではないのでしょうか。
 既に言い古されていることではありましょうが、「頑張る価値観」から「黄昏に飛び始めるフクロウに指針を求める価値観」への転換が必要なのだと考えるのです。
 そして、そういった価値観の転換を最も求められているのは、若い世代ではなくて、実は「逃げ切った世代」といわれる「団塊世代」を含めた加齢者高齢者世代なのだと考えます。
 逃げ切った世代と若者に後ろ指さされる世代が、若者世代に「ガンバレ」というのは、無責任極まることなのではと考えるのですが、いかがでしょうか。
 さて、1/10は初エビスです。街角でエビス講の七福神パレードを見かけましたので、皆様ににこやかな福が到来するようにと、お年玉代わりにお届けします。

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