正常な価格

 お彼岸の中日にちなみまして、正常価格あるいは不動産鑑定評価の彼
岸を覗いてみたいと思います。
 正常価格とはなんであろうか。如何に考えたらよいのでしょうか。
不動産鑑定評価基準で正常価格は次のように定義されています。
「正常価格とは、市場性を有する不動産について、合理的な市場で形成
されるであろう市場価値を表示する適正な価格をいう。この場合におい
て、合理的な市場とは市場統制がない公開の市場で、需要者及び供給者
が売り急ぎ、買い進み等特別の動機によらないで行動する市場をいう。」
 前記の「正常価格の定義」は一般市民にとって判りやすいものでしょ
うか。「現実には在り得ない市場に成り代わって、不動産鑑定士が正常
価格を判断致します。」前記の定義は、このように置き換えても、大き
く間違うと云うことにはならないと考えますが、如何でしょうか。
私の依頼者は、私が提示する評価書を前にして、その評価書の解説をこ
んな風に求めます。
 官公庁サイドの依頼者は
1.地権者に提示して、高い買収額とニコニコされないまでも、低額だ
と罵倒されない価格は、どの辺りですか。
2.公有地を何とか売却ができそうで、安値と社会の指弾を浴びない価
格は奈辺ですか。
 この両者に共通する求めは、正常価格の定義に相当するところの判断
を求めていると、一見解されますが、実は違います。
 前述の正常価格定義に基づいて表示した私の鑑定評価額について、そ
れは固定不偏なのでしょうかと問いかけているのです。
「アナタの判断は小揺るぎもしない判断なのでしょうか」という問いか
けでもあるのです。
 民間サイドの依頼者は
3.後になって、ホゾを噛まない売却価格は、又は買収価格は何処です
か。
4.必ず売却できないまでも、今の時点で最も保守的な価格は何処です
か。などと問いかけられるのです。
 決定を行うのが、評価主体でいいのだろうかと、いつも悩みます。
評価主体は、依頼者が的確な判断ができ裁定に至ることが可能になるよ
うな「必要且つ十分な助言」を与えることが求められているのではなか
ろうかと考えてしまい、思い惑います。
 或いは、鑑定士に「正常価格」という裁定が求められるにも関わらず
裁定の過程を明らかにすることが大変困難であることが、今に至る社会
の不信という混乱を惹き起こしているように思えてなりません。
比準価格と収益価格或いは積算価格の間に開差が生じなければ、裁定に
悩むことは少なくなると考えます。しかし、現実には開差が生じること
が多く、しかも三者の価格は基礎資料・試算過程・判断材料等に於いて
秤量比較が困難な質的格差を内在していることが多いのです。
 この三者の価格の調整過程は、単純平均、加重平均、比較考量、斟酌、
参酌等々の思考過程を経て行われますが、この調整方法について明確な
指針を得ることが大変に困難であり、最後は専門職業家としての良心に
したがい適正と判断される額を表示することに落ち着きます。
 言い換えれば、大半の評価工程において、評価基準に則り精密化を図
って作業を進めるのですが、最後の工程では「良心に基づく判断」とい
う聖域に閉じ籠もることを余儀なくさせられます。
 正常価格という一見尤もらしくて、その実曖昧な概念に逃げ込むこと
によって、社会の信頼を一鍬一鍬、崩してきたのではないでしょうか。
評価書が価格或いは価額だけで評価される風潮に、我々自身で終止符を
うつ必要があると考えます。
 同時に三価格、少なくとも比準価格及び収益価格を試算した上でのこ
とですが、依頼者の依頼目的に応じて比準価格を採用する、又は収益価
格を採用するという裁定は取り得ないのでしょうか。せめて、「依頼目
的に照らせば、こちらの価格を重視する」という表現を採用することは
できないのでしょうか。
 パソコンが身近でなかった時代はさておいて、「右肩上がりの時代」
であれ「ポスト右肩上がりの時代」であれ、或いは、不動産鑑定士であ
ろうとなかろうと、評価主体が駆使できるツールやスキルとデータに大
差はないと考えています。
 勿論、使用能力に左右される訳であり、データの質と量に左右される
訳であることは云うまでもない。大差ないと云うのは使用する技術の種
類、データの種類という意味においてであります。
 取引データから何を導き出すか、収益データから何を引き出すかが問
われるのであり、その全工程を論理的に整合的に説明できるのか、説明
できない矛盾が存在するときに、その矛盾が何に起因するのかを明らか
にすることが、常に求められていると考えています。
 得てして、依頼者の希求するところに真剣に応えようとすると「正常
価格希求」という制約が何とも邪魔になる思いがするのも、否めない事
実でもあります。鑑定評価の枠の外でコンサル業務を行えば、問題はな
いのでしょうが、依頼者は依頼目的に即応した鑑定評価額を正常価格と
して求めるのが実態でもあるのです。
 茫猿は、修業時代から一貫して「不動産鑑定士はジャッジを行う職業
である。だから高い倫理性が求められる」と、教わってきました。
しかし、個人の判断能力の限界、倫理性保持の限界も十分に味わってき
ました。その経験に照らせば、共同鑑定や協同鑑定がもっと制度的に認
められてもよいと考えます。或いは、価格評価の全工程に潜む許容範囲
といったものについて、我々自身が明らかにしてゆくことこそが求めら
れているのではないでしょうか。
 それとも、正常価格に固執する鑑定評価そのものが制度的疲労を起こ
しており、「正常価格を希求する場合もあれば、正常価格概念にこだわ
らない鑑定評価もあるのだと」、時代は転換し社会の求めるものが変わ
ってしまっているのだろうか。
 だとすれば、いかなる概念規定を前置すればよいのであろうか。鑑定
評価の枠の外だとしても、社会には正常価格概念に則した鑑定評価額を
求め、同時に・・・・頭が混乱して判らなくなってきました。
どなたか、応えていただけませんか。合掌
追伸、地価公示などにおける正常価格について疑義申し立てをするもの
ではありません。それらは、複数の鑑定士の評価結果を踏まえたもので
あると同時に、分科会等の集団討議を経たものでありますから、本小論
の枠外です。こなれていない問題提起で申し訳ないとも思っていますが、
日頃の疑問点を正直に書いてみました。

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