願わくは花の下にて春死なん

『願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃』
あまりにも有名な西行法師の歌であるが、ここに云う桜は今や日本中に溢れている染井吉野ではない。(山中に超然と時に飄然と孤立することの多い)山桜である。第一、あんな騒々しい桜の下では死ぬこともできない。(西行法師:1118-1190、染井吉野:江戸末期頃に育成された園芸交配種、1900年命名)

同じ意味で、
「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」(友則)も

「世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし」(業平)も

さらに、花も意も、時には意図的に誤解されて流布している
「しきしまの やまとこころを ひととわば 朝日ににほう 山ざくら花」(宣長)も

いずれの歌に謳われている桜は、全て染井吉野ではない。上記のごとく、染井吉野は江戸末期に誕生した品種なのである。宣長の歌などは”山ざくら花”と謳われているのに”ソメイヨシノ”と取り違えられることが多い。

(07.04.03付け追記) という訳ではあるが、我が陋屋の山桜が今年も春の便りを告げてくれた。「年々歳々花相似、歳々年々人不同」ということである。倦む(あぐむ)ことなく同じ営みを続ける花に敬意を表して記録する。 若葉の新緑と花の白さの対比がとても好ましいのである。

次は桜全景である。手前が山桜、背後がコブシの花である。

年々歳々花相似、歳々年々人不同と思いましたが、辿ってみたら人も相似ていました。というか一年を経ているのに、さほどの歩みも無かったというお粗末でした。

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