今日は七夕、07年07月07日(2007/7/7)である。いわばスリーセブンデイなのである。七夕流にいえば次に巡ってくるのは2017/7/7であるが、07/07/07と比べればインパクトが違うというものである。この日にふさわしい話題でブログを飾ってみたいものである。
ふと思いついて99/9/9の記事を調べてみた。その日の記事は「鄙に何故こだわるか」である。重陽の節句にふさわしいとも云えるが、格別に日付を意識して書いている様子はない。それ以後、01/1/1~06/6/6に至るまで重なる日付を意識して記事はアップされていない。拘っていないと云うか気にもしていなかったということであろう。
そんな訳で、格調高い記事はとても書けそうにないので、先日来話題の季刊誌「止揚」100号の巻頭言を、お許しをいただいたので転載する。
福井先生は、正義とか人権とかをひたすら声高に叫ぶことに疑問を投げかけておられる。目の前の障害をもつ仲間達の「平穏な、人として心ゆたかな生活」が無くして、何の人権か、何の正義かと問われるのである。
障害者自立支援法施行以来、止揚学園のような社会福祉施設に経済原理が持ち込まれることに「困惑し」そして「怒り」をおぼえておられるのである。
『人権と共に、人間を大切にしよう』 止揚100号巻頭言
この頃、「障害者の人権を守ろう」という叫びが強くなってきた。
しかし、その叫びが大きくなればなる程、知能に重い障害を持った仲間たちの切り捨てが深くなってきていることを、共に生活しながら肌で感じている。
その中で、(「人権」「人権」と叫ばれていても、現実はこの仲間たちを人間として大切にしないで、表面的な叫びで終ってしまっている。そのために、人権と人聞が切り離され、そこに仲間たちの不幸が生まれている)ことを痛感している。
さて、人間が切り捨てられ、人権だけが分離して先に進んでいくと、人間の持っている温かい心が染み込んだ人権は失くなり、(自分は正しく、相手が悪い)という冷たい正義が強くなってしまう。
そして、人権が人間を守るより、「人権を侵すな」という他者を裁く厳しい武器になり、人間の関係を冷たくしてしまう。
人間を大切にしない人権は私たちを不幸にする源である。
『真の自立とは』 止揚98号巻頭言
この頃、「障害を持った人たちの自立を進めるために就労を」と障害者と共に生きているという人たちや学者、そして、国の指導者からよく聞くようになった。しかし、高齢化した知能に重い障害を持つ仲間たちと歩み(就労することだけが、この仲間たちの本当の自立なのだろうか)と考えてしまう。
そして、この仲間たちと生活し、皆で助け合い、伸び伸びと歩んでいる姿を見、(人間が人間を大切にする優しい心が育つことを真の自立というのではないか)と感じている。
障害を持つ仲間たちの中にも、就労できる人もいれば、差別を受けたり、自分の力で就労できない人もいる。その人たちに(就労していないことは、人間として自立していないのだ)と主張することは、この仲間を人間として、人権を認めない冷たい発想ではないだろうか。仲間たちの自立には私たちの立場からの正義だけでなく、相手の側に立って考える優しい心が必要なのである。
全く無関係な話だが、七夕の夜、雨に邪魔されたら、スライドショー「茫猿鉄道の夜」を楽しむというのは如何でしょうか。(ポチッとクリッック)
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