師走半ば

 今日は十二月も半ばの十五日である。数年前迄なら忘年会に明け暮れ様々な案件の締切に追われている頃である。この頃はノンビリしたものではあるが業務量に反比例して処理能力が落ちているから気忙しいことにはあまり変わりない。 さて、半月も新記事を掲載しなかったにもかかわらず、毎日少なからぬ方が訪れて下さる。さすがにアクセス数は徐々に低下しているが、何よりページビュー数の低下は著しい。


 主宰者としては、新記事がない時は旧記事を読み返して頂きたいものであるが、それはオゴリというものであり、アクセス数が途絶える前に新記事をアップすべきなのであろう。とは云うものの先号記事に書いたように書けないのである。書けないうちに書く気力も低下した気配である。だからもう少し考え続けていようと思っている。来春以降の『鄙からの発信』の編集方針といったものを考えてみたいのである。いつまでも茫猿の遠吠三昧でもあるまいと思うのである。 とは申してみても書く種が無い訳ではない。日ごとに記事の種は風花のごとく舞い降りてくるのである。備忘録風にザット記してみるとこんな具合である。
※書評:生物と無生物のあいだ(福岡伸一、講談社現代新書)
 分子生物学の啓蒙書であるが、とても哲学的である。生きると云うことを改めて考えさせられる。例えば知的最低条件について、こんな一節がある。

 「仮説と実験データとの間に齟齬が生じたとき、仮説は正しいのに、実験が正しくないから思い通りのデータが出ないと考えるか、あるいは、そもそも自分の仮説が正しくないから、それに沿ったデータが出ないと考えるかは、まさに研究者の膂力が問われる局面である。実験がうまくいかない、という見かけ上の状況はいずれも同じだからである。ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということになる。」

【鑑定士が読むべき書籍であると考える由縁なのである。】
※社会通念の変化:喫煙と敷金返還
 先日のことであるが、賃貸アパートの敷金返還に関わるトラブルに遭遇した。管理を委託されている業者は、「煙草のヤニによるクロスの汚れやエアコンの汚れは賃借人負担であり、クリーニング費用を敷金から控除するのが社会通念である」という。でも賃貸借契約の特約事項には「禁煙順守」が記載されていないから紛争になったのである。しかし賃貸借契約書に禁煙が記載されていなくとも、「禁煙」が社会通念であると主張する貸し主が現れる時代になったということである。【社会通念は移ろいゆくものであるという認識抜きに鑑定評価は有り得ない。】
※二極化
 社会の様々な局面で二極化は止めどがないように見える。 ICT社会の二極分化について「テーテー氏」はかく云う。

 世間は、そもそも論理思考をもたない人の方が圧倒的に多い。社会は非効率な方が、それだけ多くの人が食っていけるのが現実ですから。 良かれと思って行った開発は、一部に大きな利益をもたらし、結果多くの人を食えなくさせている。

『ICT社会の進化のパラドクスと云えるのであろう。』
・鑑定評価の二極分化も止めどがない。
 言い換えれば、熟練労務も特殊技能も必要としない「ヨシギュー、駅ソバ」的世界と、ミシュラン三つ星的世界の二極分化が避けられず、しかもその間をつないでゆく中間的世界はないのであり、仮にあったとしてもヨシギュー紛いかミシュラン紛いに過ぎないのである。
 そんな鑑定評価の将来は何処へ向かうというのであろうか。
官公需(地価公示、地価調査、固評、競売、公共事業用地取得)関連が退潮なのは自明であり回復する兆しどころか、競争入札における価格競争に追い立てられて退潮に拍車がかかる気配に変化はない。証券化やデューデリに代表される民需も一部を除けば、迅速・低廉を求められることに変わりなく、明るい未来を描けないでいる。
 さらに、その上に「土壌汚染」、「アスベスト被害」、「耐震基準」等々、納期迅速・報酬低廉の要求はそのままに、成果物の要求だけ際限なく膨れあがり、一般の鑑定士には直ちに対応しかねる状況が拡大を続けている。新スキーム事例調査も負担に対応するだけの見返りがまだ描けていないのが実情である。
1965/04の鑑定評価制度発足以来、鑑定評価は幾たびかの神風に支えられてきた。神風の大半は官製の風であった今回の新スキームという風も茫猿は神風と考えている。  多くの業界人は「新スキーム事例作成」について負担の重さばかりを云うのであるが、茫猿は新スキームを支えるICT化の進展を評価するのである。
 考えるまでもないのであるが、地価公示に参画する鑑定士の全てが一つのネットワークにアクセスし情報を得ると同時に情報を発信するという「新スキーム」は、画期的なことなのである。ただしここでアクセスするネットワークは官製ネットワークであり、国交省が開示を認めた情報のみが受信でき、国交省が求める情報を送信する機能しか利用できないのである。その意味からはネットワークというのも烏滸がましいのであり、正しくは「鵜飼いの鵜匠があやつるヒモ」と云った方がよかろう。 だからこそ、このときを得難い機会として、鑑定士自身のネットワークを構築しなければならないのである。
 先に述べたような、情報化、二極化、ヨシギュー化、ミシュラン化、社会通念の変化、迅速化要求、低廉化要求、公益法人制度の変革といった様々に移ろいゆく局面に対応する武器としてのICTツールを持たねばならないと考えるのである。何よりも社会への廉価で迅速な情報発信ツールとしてiNetに優るものはなかろうと思えるし、このツールを我がものとして活用できるか否かに鑑定評価の未来が懸かっているようにさえ思えるのである。
 一人々々の不動産鑑定士は常に能力の限界を試されるひ弱な存在に過ぎないが、ネットワークを活用し互いが互いを支え合う環境を構築すれば新しい未来が見えて来るであろうと、この師走に考えているのである。それを能天気と嗤う人は嗤えばよい、所詮、評価というものは後講釈なのであり、この頃では「茫猿の美学」などと揶揄する人もいるけれど、自らが信じるところを追い求めることにこそ愉快があると云わずしてなんぞやと思うのである。その昔に「鑑定士の勘違い」というエントリーをアップしてから早や九年、状況にさしたる変化は見えないのがなんとも口惜しいのである。 今、改めてこの記事を読み返して思われるのは「鑑定士の勘違い」であり「鑑定士弧たり得ず」なのである。実のところ、茫猿はこの記事に記されることを十年間いや二十年間も言い続けてきたのだと思い至るのである。
 もう一つ思わされることがある。今はH20地価公示作業の真っ最中である。地価の上昇局面と下降局面のマダラ模様について、何度も何度も議論を重ねている。何回かの議論を重ねながら、いや重ねれば重ねるほどに疑問が大きくなってくるのである。疑問というのは正しくなかろう「疑念」である。
 『こういうことである。』
「鑑定士は直面する局面に囚われすぎていないだろうか」という疑念である。ミクロ的虫瞰的視点に囚われすぎてはいないかという疑念である。二十年三十年先などとは云わない、三年先五年先を正しく見通すことはできないが、そのような鳥瞰的俯瞰的視点を意識しながら局面を分析すべきではという疑念である。
・複合商業施設が開店したが、直ちに地価にプラスか?
・下落を続ける限界集落の地価はどこまで下げるのか?
・都市の中の高齢少子化過疎地域は限界集落化してるが、地価は?
・標準住宅モデルと価格モデルは構築可能か?
・百年住宅と弐拾年住宅の対価比は?
・公共交通機関の存否と地価?
 などと様々に思い巡らして、今の地価上昇は長期低落の中の「束の間のアダ花」なのではと疑いつつ議論を聞いているのである。
 JR東海道線大垣駅北口に紡績工場跡地67千平米を開発して07/10にオープンした延床72千平米の複合商業施設・アクア・ウオークである。平日の午後とはいえ、開店間もない歳末商戦のさなかなのに何やら閑散と見えるのである。

 広大なアクア・ウオーク敷地の一部に旧紡績工場跡地を示す煙突が今も残されている。またアクア・ウオーク施設と大垣駅北口との間には平常は閉鎖される駐車場が介在している。大垣駅の北側に隣接するという「駅舎との一体性を阻害する障壁」にもみえるこの空地が何のために残されているのかは定かでないし、大垣駅南側市街地と北口を結ぶ自由通路も階段の多い狭い古びた通路のままである。整備途上と云うことなのかもしれないし、駅乗降客を重要な客層として意識していないと云うことの表れなのかもしれない。口の悪い人に云わせれば、アクア・ウオークの無料駐車場が駅乗降客の駐車場替わりに利用されないためであるとも云うが、真偽は定かでない。
 

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