新緑のせせらぎ街道

ひさしぶりに「せせらぎ街道」を走ったのである。最近の高山行きは東海北陸自動車道を使うことが多く、以前は当たり前のように走っていたせせらぎ街道を使うことがなくなっていたのである。


岐阜市から高山市までは150キロ前後である。40年前の高山行きは岐阜から東に国道21号を各務原市鵜沼に向かい、そこから国道41号を北上するコースしかなかった。いわば直角三角形の90度コースである。その後は県道関金山線利用など広角のコースを暫く使っていたが、せせらぎ街道(郡上八幡から旧明宝村、旧清見村を抜けて高山市に至る県道高山八幡線)が整備されると、もっぱらこの道を利用していたのである。最近数年間は東海北陸道が整備されたことから高速道利用がほとんどであった。この道は岐阜から北上し、飛騨清見ICから中部縦貫道を東進するというコースであり、国道41号経由に比較するといわば対角の90度を走るぐあいである。高速料金はかかるし走行距離も伸びるが、躰が楽だからもっぱらこのコース利用となっていた。
せせらぎ街道コースは、直角三角形の斜辺を走ることとなり走行距離が短いのであるが、何よりも沿道の景観が美しいのである。春の桜、新緑、夏は沿道の木々が発するフィトンチッドを車窓から満喫し、秋はみごとな紅葉、さすがに冬場はあまり利用しなかったが雪景色もとても美しい。郡上地内は長良川の支流吉田川沿いを北上し、坂本トンネルを越えて清見村(現高山市)に入ると宮川の上流川上川沿いに降ってゆくのである。川沿いコースだから急なカーブは少なく、ゆったりと走れるのである。
ただ、旧明宝村も旧清見村も過疎地だから人家が少ない。人家が少ないことは自然景観にはよいのであるが、喫茶店はおろかコンビニもガソリンスタンドもない約40キロの道程である。今日はしばらく走っていない街道を走りたいとふと思い立って、久し振りに「せせらぎ街道」を走って高山に向かったのである。
せせらぎ街道の郡上側入り口にあたる、旧明宝村・道の駅「明宝:磨墨の里」付近明宝大橋の欄干彫像は「梶原源太景季騎馬像」である。このあたりはかの宇治川の合戦で名を挙げた「名馬磨墨(するすみ)」が産したところという伝説が残っている。

付近の民家庭先ではヒトツバタゴ(ナンジャモンジャともいう)が満開だった。

せせらぎ街道・坂本トンネルを抜けると飛騨である。飛騨川には旧清見村大原に道の駅パスカル清見がある。付近の新緑は深緑から浅緑にいたるグラデュエーションである。

川上川の清流と新緑は心和ませてくれる。一帯の広葉樹は秋の紅葉もみごとである。日本海に向かって北方に流れる川上川の両岸は紅葉の名所であるが、ここの佳いところは午前中は朝陽に西側の山が映え、午後は東側の山が夕陽に映えるのである。

1113mの分水嶺西ウレ峠では、まだ桜が咲いていたし、ウグイスも鳴いていた。

清見地内ではダケカンバの白い樹肌と浅緑の若葉の対比が美しい。

早朝に岐阜を出たせいもあって仕事がはかどったので、これまた久し振りに旧丹生川村に足を伸ばしたのである。高山市旧丹生川村地内にある円空仏で有名な真言宗の古刹千光寺本堂である。

旧丹生川村千光寺付近の台地には飛騨エアパーク、いわゆる農道空港がある。飛騨の農産物を東京などに空輸することを主目的としてつくられた滑走路(800m)であるが、実際にはほとんど利用されていないようである。これもウルガイラウンドの副産物であり、今に至る国債残高の一部なのである。

滑走路脇に展示されている、旧自衛隊機である。ヘリがS54製回転翼哨戒機HSS-2Bと表示されていた。プロペラ機はS37製初等練習機KM-2と表示されていた。

今日はあいにくの曇り空だったが、雲の切れ間に乗鞍岳が束の間顔を覗かせてくれた。(滑走路脇から撮影)

鄙からの発信・定番の蓋である。(高山市上切町地内)

帰途は高山ICから高速道を利用したのであるが、途中のひるが野SAにとても珍しいものを売っていた。春山の恵みである「笹竹の子」である。これを皮付きのまま焼いてから地味噌を付けて食すれば、とても幸せな気分になれるのである。出会いに感謝して買い求めたのであり、茅屋に帰ってからの遅い晩酌は「焼き笹竹の子の地味噌添え」である。

(後日談)笹竹の子は、老母がとても懐かしがってくれた。幼い頃に百々ケ峰(岐阜市岩崎地内)に取りに行き穂先をかじったという。確かに穂先はエグサよりも甘さがある。冬眠明けの熊が好むのもよく判る。

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