優勝劣敗の現場・救急船と町場の店舗

 数日前から「未曾有、百年に一度」、「優勝劣敗・適者生存」、「二兆円と優先度」と吠え続けてきたが、吠え続けるには続けるだけの訳がある。 茫猿が知る二つの現場では、社会の余裕の無さや経済合理性優先の風潮がもたらした弊害に苦しんめられているのである。


 一つは瀬戸内の離島の話である。 離島で最近知り合った工務店のオーナーは島生まれの島育ちであるが、今は岡山市内に居を構えている。彼は岡山から毎朝、島の職場へ通勤しているのである。 島には彼の両親が居住する実家もあるし、工務店もあるのに何故岡山から通勤しているかと云えば、彼には難病に苦しむ息子がいるのである。本土に居を構えたのは難病の治療のためではない。彼の息子との為に施す有効な治療法はまだ見つかっていない。 しかし、時折発症する病変や一般的な感染症に対応するには、島の医療機関はあまりにも貧弱なのである。 週日の昼間は島の診療所に通勤する医師がいる。しかし夜間と土日は無医島になってしまう。 島に通勤する医師も、病変時の応急処置には設備も足りないし、万全の治療には自信が無いという。
 
 彼は息子の安全のために、島を離れて居住地を岡山市内に設けて、二重生活に近い不便を耐えているのである。 彼だけではない。島の妊婦は産み月に近くなれば、高松か岡山に住まいを移さざるを得ないし、早産ともなれば運次第となりかねない。
 実際に昨年の春先のことであるが、茫猿の次男があわや死にかけたことがある。 彼は虫垂炎をそうとは知らずに腹痛を耐えているうちに、腹膜炎を起こしてしまい危険な状態になったのであるが、生憎と連休中のこと島は無医島であり、しかも急変したのは夜間だったからフェリーもないのである。 急遽、漁船をチャーターして本土に渡り大事には至らなかったのであるが、手術時間も長く、予後も時間がかかったのである。 もし海が荒れていたら、あと何時間か遅れていたら、息子を失っていたかもしれないのである。
 人口千人未満の島に医師が常駐するのは無理だろうが、島に限らず救急船や救急へりを要所要所に常駐させることは、あながち不可能ではなかろう。 平時には無用の長物であろうが、緊急時にはこれほど頼りになる設備はなかろうと思うのである。 全国の無医地区をカバーする要所に救急船や救急ヘリを配備する経費が賄えないほど日本は貧しくはないと思うのである。
 いま一つは、止揚学園で最近に伺った話である。 自立支援法施行以来、福祉現場に効率や採算性が求められるようになった。 先月も学園に必要な電気設備を購入しようとしたところ、行政庁は見積入札を行い最安値入札を採用するように求めるのである。 しかし学園にしてみれば、入札を行えば都市に所在する大手が安値を投じるのは自明であり、長年つきあいのある地元業者は排除されてしまうのである。 購入時はそれが合理的であるけれど、長期的には不合理なのである。 何故かと云えば、設備は故障が発生するしメンテナンスも必要である。学園では故障時に長時間設備が使えない事態はとても困ることである。 だから長期的にみれば地元業者を採用するのが合理的であるのだが、行政は購入時点の価額しか評価しないのである。
 同じことが商店街から八百屋さんや魚屋さんが、郊外の大型店舗に駆逐されたことにも云える。最近は米屋さんまでも無くなりつつある。 多少は値が高くても専門知識が高く対面販売をしてくれる商店の存在は、高齢化社会ではますます重要になるだろうが、今や復活は望み薄である。 ご用聞きや配達をしてくれる商店が、都心周辺の老人世帯が増えている過疎地区ではますます求められているのである。 
 安値ばかり追いかけて、町場の様々な商店を廃業に追いやったのは大型スーパーだけのせいではなくて、消費者自身の長期的視点を欠いた視野狭窄のせいともいえるのである。 今、少しづつではあるが町場の商店の存在が見直されつつある。一人一人がそういった意識を持つことが重要なのだろうと思われる。
 鄙の堂守が電気製品を購入しようとすると、息子達は大型量販店での購入を勧める。最近地デジTVを買い換えた時もそう云われたが、堂守は近くの昔なじみの電気店から購入したのである。堂守の父母など高齢者にとっては、ヒューズ一つから点検に駆けつけてくれる馴染みのお店がとても頼りになるのである。
 輸入食品の薬品汚染問題や食品偽装問題も似たような視点から考えてみれば、頷けることがある。 馴染みのプロが保証してくれる、彼らの目利きを経た商品は信頼性が高いといえるのである。 米や野菜や魚は、彼らの目利きを経ることが安全性を高めると云えるだろう。
 以上二つの例ともに、経済合理性とは対極に位置することであろう。 でも無用の用、合理や効率の間に位置するアソビ(余裕)といったものに意味を認めることや、資金を費やすことがとても重要だと思えないだろうか。 そういった考え方は、障害者などと共生してゆく考え方にもつながるものであろう。 障害者との付き合い方を効率や経済合理性からのみ考えない、彼らの存在や彼らの幸せが社会の許容性を高め、社会の質的向上につながると考えられないだろうかと、しきりに思うのである。

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