七月一日

 今年もはや半年が過ぎたのである。 寒いなか街頭募金のお手伝いをしていた時から既に180日余が過ぎて蒸し暑い夏が近づいている今日この頃である。
 昨夜は学生時代の友人達と呑んでいました。 一人は後継者に予定する一人息子がサラリーマンとなって東京へ転勤したことから、自営企業の店仕舞いする予定を立てていたところ、ひょんなことから関連企業の代表者(社長)に推されてしまって、自らの企業も当面は存続しなければならなくなったと嘆いていました。 《嘆いているのは口先だけで顔は笑顔でしたが。》


 もう一人の友人は遠方に住む娘婿の居宅探しの相談を茫猿が受けていたのですが、アドバイスに従って物件を見に行ったところ、アドバイスとおりの野なかの小規模分譲地であり、隣家などに問題がありそうなこと、建物は全面改装が必要とみたことなどから、今回は見合わせて、じっくり腰を落ち着けて探すといっていました。 置かれた環境にもよるが、持ち家指向が本当に好ましいかどうか、生涯設計と照らし合わせてよく考えた方がよいでしょうと言っておきましたが、彼自身は娘のために一肌も二肌も脱ぐつもりのようで、元気な親の顔を見せていました。
 茫猿はといえば、このサイトでご存じのとおりであり、時には今ひとたびと思い、時にはもうよいのでは十分ではなどと、行きつ戻りつしています。 来年の今頃のことなど誰にも判らないでしょうから、今からあれこれと言揚げするのは避けますが、鑑定業も40年に近くなってみると、今更に耐用年数の満了を思いますし、土俵年齢の大幅超過を感じさせられます。
 今年の盆は先輩田辺氏がお亡くなりになって十年、古田氏が逝かれて早いもので四年になります。弟が亡くなってからでも二年、三回忌の盆です。 先頃に委嘱状が届いたH22年地価公示も、茫猿より年輩の鑑定士はどなたも居なくなるようです。 分科会に自分より年配の方が居なくなると云うことの実感は九月にならなければ判らないだろうと思いますが、それでも今から既に一抹の寂しさを感じております。 誰もが通り過ぎてきた、そして通り過ぎてゆく道なのでしょうが「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」という言の葉の本当の意味が少しずつ判るようになってきたのかなと思わされます。
 福岡伸一著「動的平衡」を読み終えました。 断片的には印象に残る箇所が多いのですが、全体を通してはもう一、二度は読み返さないと正しく理解できないだろうと思います。「動的平衡」について、福岡氏はこのように解説する。

生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれている。

 一年という時間の早さについては、このように語っている。

 私たちの時間間隔は「体内時計」に由来する。そして、体内時計の秒針はタンパク質の新陳代謝速度にコントロールされている。 ところが新陳代謝速度は加齢と共に確実に遅くなっている。つまり年齢を重ねると体内時計は徐々にゆっくりと回ることとなる。
 そうすると、暦の一年が経過した時に体内時計で感じる自分感覚は一年が経過したとはとても思えない。まだ半年くらいかなと思うのである。 しかし、その時には実際の一年が過ぎ去ってしまっていて、体内時計感覚とのズレに愕然とするのである。
 つまり、年をとると一年が早く過ぎるのは「分母が大きくなるから(生きてきた時間が長くなり、相対的に最近の一年を短く感じる。)」ではない。 実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけない。そういうことなのである。

 ということは、正月から既に四千数百時間が経っているけれど、茫猿の遅れている体内時計はまだ二千時間、或いは千時間しか経っていないと計算しているのであろうか。 だから、改めて暦を眺めてみれば、我が身が自覚する代謝更新回数と、暦のつまり地球の自転回数との落差に「月日の経つのは速いものだなぁ!」と詠嘆するということなのであろうか。 時が経つのが速くなるのではなく、自らの時間感覚が遅くなるから相対的に”時の速さを”感じるのであろうか。
いずれにしても、時は待たない、我が身遅れるのみである。
 「動的平衡」はしばらくは手許において、おりにふれ読み返したい一冊です。
他には、「非線形科学」、「経済物理学の発見」、「時間と自己」などを少しずつ読み進めていますが、生命の回転速度の低下はすなわち脳の回転速度の低下なのでしょうか、読み進む速度が低下し、理解する能力も劣化が著しいようです。 1Q84はやっと40頁に至ったところです。この夏中には読み終えるかも。
 なにげなしに過去記事を検索していて、こんな記事に出会いました。解散も近い今、もう一度考えてみるに如何? 何よりも、このサイトも十年続けてきたから、あの時茫猿は何を考えていたかと、振り返ってみるのも時には悪くないと思いました。

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