集団的自衛権の七不思議

集団的自衛権というものがよく判らない。ましてや限定的集団的自衛権なんてものは、さっぱり判らない。 限定とか制限とか、最近のマスコミを賑わせているが、決定的なことが抜け落ちている。些末なことのみに議論が集まっているように思える。 集団的自衛権なるものは、要するに多国間軍事同盟であろう。A国が侵略されたら、同盟を結ぶすなわち安全保障条約を結ぶB国が武力でもって助けるということである。B国が侵略されたらA国が助けるということである。国連が結成する多国籍軍も同様の論理であろう。

さらにいえば、B国:具体的に判りやすく“米国”と軍事同盟を結ぶX国“韓国”が侵略されたら、米国は韓国を守るために軍事力を発動させるだろう。この時、韓国の敵国は米国も敵国と見なし米国に攻撃を加えるだろう。《直接に米国本土を攻撃しなくとも、米国艦船や航空機を攻撃するだろう。これは政府や安保法制懇が例示している15項目の一つに近似する。》

この時米国と軍事同盟(安全保障条約)を結ぶA国、これも具体的に“日本”は、韓国を直接支援しなくても米国を支援する軍事行動に参加することとなるだろう。 政府はそのような戦闘行為には参加しないという。 そのことを称して限定的または制限付き集団的自衛権と称している。 そのような限定があり得るのかと問えば、それらは仮定でありグレーゾーンであるといい、時の総理大臣が判断することであり、その総理大臣は直前の総選挙で国民が選んだ総理であると云う。

昨今行われている政府与党間《内閣と自民党と公明党》議論、それに国会論議はこのような判り易い仮定に基づく議論はなく、紛争戦闘地から緊急避難する日本人が乗艦する米軍艦船が攻撃された場合に自衛隊はどうするのかなどという、根幹を離れた瑣末的で起こり難く判り難い議論ばかりである。 ただ一つ、はっきりしているのは、様々な限定や制約制限などがつきまとう集団的自衛権グレーゾーンにおける判断は、時の総理に委ねられるというのが政府自民党の見解のようである。

おかしいではないか、そのような恣意的ともいえる判断を総理大臣その他の政治家にさせないために憲法が存在し、それを立憲主義というのである。グレーゾーンを、その時々の政治家に任せるのでは立憲主義並びに憲法の骨抜きになる。 現在の憲法解釈はそのような「歯止めのない拡大解釈」を許さないために、軍事力の発動は個別自衛権に限るとされているのである。 グレーであろうと限定であろうと制限であろうと、集団的《多国籍》自衛権行使に踏み込めば、際限のない軍事行動に巻き込まれるであろう。それが歴史の教える必然である。

七不思議その1 集団的自衛権?
集団的自衛権という文言そのものがマヤカシである。集団的軍事同盟権もしくは集団的安全保障権あるいは集団的防衛権と呼称するのが正しい日本語である。

七不思議その2 集団的自衛権と云う権利は義務を伴わないのか?
さらにおかしな論理が展開されている。集団的自衛権行使は権利であって義務ではないという議論までもが横行している。この場合の権利者及び権利行使者とは日本国であり、もっと具体的には時の日本国政府すなわち時の総理大臣であろう。

権利であって義務でないから、必ずしも行使を約束するものではないと云うのであろうが、冒頭に述べたように集団的すなわち多国籍間の約束というものは、AがBを助け、BがAを助けるという約定《国際的声明や宣言や条約》は権利《BがAに助けてもらう》だけに止まるものではない。義務《BがAを助ける》を伴うものである。でなければ集団的自衛権《相互安全保障:軍事同盟》は成り立たない。権利は必ず義務を伴うものなのである。

であるから、集団的自衛権は意図的に行っている日本語の摺り替えであり、誤った言い換えであり言いくるめである。言うのであれば、互いが互いを防衛するという集団的防衛権であり、相互安全保障権である。そして、互いが互いを防衛するという《してもらう》権利行使である以上、互いを防衛するという義務行為も伴うのが論理の帰結である。

集団的自衛権《防衛権》なるものは、日本の自衛のみに関わるものでも限定されるものでもなく多国籍間の軍事同盟である。そこには他国に行使してもらう権利のみでなく、自国が行使する義務を伴うのが論理の帰結であり、多国籍間約定の帰結である。

七不思議その3 限定的集団的自衛権、限定はあり得るのか?
集団的自衛権の本質が相互安全保障権であり防衛権であるとすれば、日本一国の独自あるいは独特な解釈による限定など多国籍間の約定のなかで存在しうるのか? そんな都合の良い勝手な解釈や言い分など存在し得ないだろう。相互安全保障とは国家間の互いの権利と義務が平衡するものである。

なによりも戦闘行為《集団的防衛行為》が始まってのちに、ここまでで止めますなどという言い分が味方国《集団的防衛行為行使国》に通用するだろうか、味方国が渋々承知してくれても、それは前線における戦闘離脱行為である。 それよりもなによりも、敵国にそんな得手勝手な理屈が通用すると考えること自体が能天気なフィクションの世界の話である。 多くの議論は兵站行為や掃海行為に限定するというが、軍事作戦において最も重要視される作戦行動は“兵站線を叩け”であり、機雷掃海という“自国防衛線を崩す行為”を叩く作戦である。

七不思議その4 総理大臣の判断と立憲主義とは?
政府自民党は集団的自衛権という“言いくるめ”を通そうと「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」という言い方をして、この影響可能性の有無や危険の多寡を判断するのは時の総理であるとする。しかし、日本が採用している立憲主義というものは、総理や政治家が時々に恣意的な判断をさせないために憲法で制約するというものである。

七不思議その5 なぜ、こうまで解釈改憲を急ぐのか?
安倍総理が解釈改憲の閣議決定を急ぐ理由が依然として判らない。東アジア情勢が緊迫しているというけれど、もとを糾せば安倍総理の戦後レジーム見直し論や靖国公式参拝が招いた緊張ではないのか。米国が自国にとって最重要の貿易パートナーである中国とことを構えることを望むというのであろうか? 米国の軍事同盟国である韓国と日本がことを構えるというのであろうか? 食料や電力供給もままならない北朝鮮が日本にことを構えるというのであろうか? 緊迫しているように見えるのは売り言葉に買い言葉の応酬に過ぎないのであり、それを大事に至らないようにするのが政治家の最大の努めであろう。

意外と本質をついているかに見えるのが、中間選挙を控えるオバマ米国大統領がTPPの早期妥結を求め、その代償として集団的自衛権・解釈改憲を容認もしくは歓迎するというリップサービスをしたのではないのか? では、安倍総理はなぜ解釈改憲を行いたいのか?

彼は「戦争のできる普通の国を目指し、戦後レジュームからの脱却を目指している。俗にいえば、丸腰でなめられてたまるか、神国日本は強いのだぞという憲法改正を目指す自民党右派それも最右派の系譜を引き継ぐ嫡子を任じているのではないのか? 武力を背景とする砲艦外交を行うと同時に原発と兵器と新幹線輸出を成し遂げたいと考えているのでなかろうか? つまり、日本の総資本奥の院を構成する旧来型重工業や兵器産業並びに商社の意を受けているのではなかろうか?

??ばかりであるが、米、牛、豚を買い、新幹線はともかく原発と兵器を売る。別の言い方をすれば農家をグローバル市場に売り渡し、重工業や商社の意を迎えることによりアベノミクスの達成を図る。そして解釈改憲に道を開き、安倍総理等の言うところの戦後レジームの再構築を成し遂げるというところに目標設定があるのだろう。

七不思議その6 日米安保条約の片務性?
今の日米同盟関係が、米国に一方的に守ってもらっている片務性の高いものであるからこれを是正すると安倍総理は繰り返すが、自衛隊に血を流させてまで米国の戦争に参加して晴れて双方性、対等的になるのだから、基地の撤廃を求めないと、対等どころか逆に日本だけが一方的に米国に貢ぐ片務契約になってしまう。 この際、安倍首相は沖縄米軍基地をはじめ横田も横須賀も岩国も国内の全米軍基地の即時変換を求めるべきであろう。
日米同盟が片務契約でない所以が日米安保条約第六条に記されていることは、先の記事で述べた通りである。基地の提供と地位協定という代償責務を日本は負っている。

七不思議その7 戦後レジーム転換と専守防衛とは?
戦後日本の繁栄は平和憲法とともにあったことは紛れもない事実である。だから、朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、イラク湾岸戦争にも参戦しないで済んだ。銃弾の飛ばない後方で兵站にのみ専念していた行為は卑怯な振る舞いだったかといえば、決してそうではない。国際紛争は武力を持って解決することを目指さないという一貫した日本の国家姿勢が貫かれていたのである。不沈空母日本として米軍の戦闘を後方支援していたのでもある。

以上の安倍自民党が言い立てる集団的自衛権にまつろう七不思議を考えてみて、改めて思うことがある。

戦うことだけが勇ましいのではない、戦わないこと、戦いを起こさせないことに不断の努力をすることが時に辛くとも、真の勇者なのだと思える。生涯を通して非暴力主義を貫き、凶弾に倒れたガンジーやキング牧師は卑怯者なのかと問われれば、決してそうではない。彼らは時代を先取りした勇者なのである。 その対比でみれば戦後レジュームを否定し、世界に冠たる平和憲法を否定する人たちこそ、時代に逆行する国家主義者なのではないのか。

もう少し、俗に言えば、少子化が進み労働力需給が逼迫すると予想される近い将来の日本で、自衛隊員に志願することが海外派兵のリスクが伴い戦死や負傷のリスクが現実のものとなる時に、自衛官志願者が現れるだろうか、疑問である。そのときに為政者はどのようにして専守防衛組織である自衛隊の組織を維持しようと言うのであろうか。

誤解しないでほしいことであるが、日本が現実に敵の脅威にさらされた時に何もしないというのではない。領海内に侵入した夷狄には国民こぞって立ち向かうものであり、私だって後方支援かゲリラ戦しか参加できないにしても、家族や縁者を守るために戦うだろう。このことには誰しもそんなに異論はないはずである。

だがしかし、そのような事態を唯々諾々として招いてはならないのであり、そのような事態を招かないように不断の努力を傾倒すべきである。 それこそが、憲法前文にいうところの、『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。』に叶うことなのだと信じる。

仮定の起こりそうもない事案を誇張し、誤っている事例を誇張し強調して、国民をミスリードしようとする、かたくな姿勢こそが問われなければならない。 限定的集団的自衛権と云う言葉遊びやマヤカシに乗せられて解釈改憲という立憲主義を踏みにじる愚かな道に進んでは後世に禍根を残すこととなろう。なによりも先の戦争の反省の上に「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と宣言した先人の願いを踏み躙るものであろう。

安倍総理という稀代のアジテーターを総選挙で勝たせてしまった、民主党の鳩山由起夫、菅直人、小沢一郎、そして野田佳彦の罪はとても大きいものがある。彼らが政局論にこだわり大局を見失った罪はとても大きい。

ここまで書いてきても、もう一つ釈然としない茫猿が、はたと腑に落ちる論に出会った。下北半島・恐山の院代を務める南直哉師が世に問うている「恐山あれこれ日記:やはり言っておこう:2014.05.20」である。 南師はこのように述べている。

一番ダメなのは、政治に妙な情念を持ち込むことです。「美しい国」とか「日本をとりもどす」とか「戦後レジュームからの脱却」だとか、漠然とした気分を言うばかりで、何をどうしたいのか、何故それが必要なのか、その結果何が起きるのか、具体的なことがまるでわからない言い草ばかりです。

一例を挙げれば、個別的自衛権と集団的自衛権は、後者が共通の敵に対する軍事的同盟を基本とする考え方であって、自国の防衛とは論理構造がまるで違うにもかかわらず、「皆さんのお父さんやお母さん、子どもたちを見殺しにしないため」などと情に訴えて、個別自衛権の延長線上にあるかのような言い方をするのは、およそ論理的ではありません。

来週末には解釈改憲を閣議決定すると伝えられる安倍総理であるが、この先一週間、政界の一寸先は闇だと言われるが、果たして何かが起きるか、何も起きないか。《一人くらいは、造反する良識ある大臣が現れないものか。》
長々と駄弁を弄した気もする。しかし、今言っておかねばならないと考えている。言うべきことを言うべき時に言わないのは、心にやましいことである。それだけは避けたいのである。

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