2014/07/01を忘れない

この記事は2014/07/02にアップされたものの再掲である。再掲ではあるが、改めて思い起こしてみたいし、選挙権を行使するに際してよく考えてみたいから記事とする。

2014.07.01 安倍内閣は集団的自衛権の“限定的”行使に道を開く閣議決定を強行した。戦後七十年の日本の歴史を全否定するに等しい解釈改憲という禁じ手を用いた日として、歴史に記録されるだろう。

自民・公明両党所属の国会議員450数名のなかでただ一人、公然と安倍内閣に反対を表明している自民党村上誠一郎議員の外国特派員協会における会見によれば、彼の反対理由は要約次のとおりである。 「集団的自衛権に自民党で一人反対、村上誠一郎議員が会見

憲法解釈の最終責任は内閣にはなく、司法、最終的には最高裁判所にある。 立法府や行政府がやることは、最高裁に違憲だと判断されないような法律をつくり、そしてまた解釈し、運用することである。 閣議決定で解釈を変えて、それに基づいて自衛隊法などを改正するということは、下位の法律によって上位の憲法の解釈を変えるという禁じ手である。

もう一点、立憲主義とは、国家の役割は個人の権利や自由の保障にあるとするものである。憲法によって国家権力の行動を厳格に制約するという考えで、日本国憲法の基本原理えある。

集団的自衛権とは、自分の国が攻撃されていないのにも関わらず同盟国や近い国が攻撃されたら戦争するということである。 憲法9条は戦争放棄と戦力不保持を定めていて、自衛権の発動による武力行使は、我が国への武力攻撃があったとき、他に適当な手段がない場合に必要最小限度で認められていることである。その必要最小限度をいくら緩めたところで、我が国への直接攻撃が無ければは、武力攻撃はできないと考えられる。

日米安保条約は片務条約ではなく、多くの基地を提供し基地維持費を提供している双務契約である。尖閣諸島問題は石原都知事が問題提起し野田内閣が国有地化したことに端を発する。靖国問題は信仰の問題であり個人の内面の問題であるが、公の立場に立った人間は、自分の感情だけで、物事を判断してはならないと考える。

これほどの大きな問題に公然と反対意見を述べる議員がたった一人であるということを、とても訝しく思う。安倍内閣の暴走を漫然と見逃す国会議員もマスコミも自主性とか自律性というものを失ったように思う。 何よりも一内閣が解釈改憲を強行するということは、内閣が変われば逆の解釈改憲も有り得るということであり、法治国家日本の立憲主義が危うくなるということに安倍内閣が気付かないふりをしていることを危ぶむ。

「戦後レジューム」の再構築を目指すという安倍総理の思い込みが、禁じ手を用いて「普通の軍隊を持つ国」に日本を変えてゆこうとする危うい賭けであり、日本の将来を危うくする行為であるということを指摘し続けなければならない。

「戦争行為のない世界を目指すという理想」を掲げる憲法九条に誇りを持つ者として、理想に向かって歩み続けなければならないと思っている。民主主義とは手間暇のかかるまだるこしいものだとしても、歩みを止めてはならないと思う。

改めて、福井達雨氏の「負け戦にかける」を思い起こし、 久野収氏の「どんな敗北の中からも民主主義完成の契機がある。 どんなに敗北を重ねても負けない自分がここにいる。」を思い起す。

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