郵便局の前に発売を報せる幟《のぼり》が立ち、コンビニの店頭にも年賀状陳列棚が設けられたのは十月の末のことだったのに、テレビのCMでは「年賀状はお早めにお出し下さい」と案内している。歳末も間近となったのに、今年の賀状はどうするか、買うか買わないか、出すか出さないか、まだ迷っている。
四十年近く維持してきた事務所を閉めてしばらくは転送されてくる賀状もあったけれど、それも無くなり今や届けられる賀状は年々減ってきている。減ってきているそれさえも明らかに虚礼というか前年踏襲というか、定例の文面と宛名が印刷された賀状が大半である。
茫猿とても宛名を事務所スタッフに依頼したことはあったけれど、それでも文面だけは賀状集や定型句に頼らず、唯一独自の賀状を作ってきた。残日録の身にはそんな賀状ももういいのではと思える。 でも未だ生きているという知らせをするだけでも賀状を出す意味があるだろうかとも考えている。
今年はパソコンをWindowsからMacに替えたから、従来の住所録の移動更新を行わなければならない。印刷フォーマットも考えなければならない。だけど何も手つかずである。
「我が佳き友よ」という歌に、こんなフレーズがあった。「暑中見舞いが《宛先不明で》返ってきたのは秋だった。」 虚礼であろうと定型文であろうと、未だかつての居住地に変わりなく生きています、そのことを旧知に伝えるだけでも意味有ることではないのか。難しく考えることはない。「アイツもコイツも変わりなく生きている。歳を経たことは間違いないし、病を得ているのかもしれない。でも変わりなく生きている。」
正月というものが、冥土の一里塚であることは不偏の定理であるにしても、彼も生きて在り我も生きて在る、そんな確認の往復である以上の意味を求めることなど必要なかろう。そんな風に思えているのだが、どんな賀状を用意するのか、考えるだけでも面倒な気分になってくる。たぶん、十二月も半ばを過ぎれば何かは浮かんでくるだろうと思っている今朝である。
この季節、鄙里は晩秋の日ざしを浴びると輝いている。一年でいちばん美しいと思える数日である。
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