薩長史観とは

作家半藤一利さん(87)と保阪正康さん(78)の対談記事が東京新聞に連載された。「薩長史観を超えて」《2018/2/20〜2018/2/23》と題する対談である。87歳と78歳の対談である。遺言というのは失礼だろうが、今や少なくなった戦争を知る世代が後世に語りのこす話である。

明治維新から太平洋戦争に至る間に流布された歴史観を、両氏は薩長史観と名付ける。古今東西を問わず歴史というもの、すなわち書物として残された歴史とは大半が勝者が書き残したものである。敗者が残そうとしたものがあるとすれば、それらは歴史のなかに棄却されるか改竄されるのが常である。

その意味では日本書紀はいうまでもないし、古事記も語り部から書物に書き起こされたときに、当時の権力者に都合の悪い部分は書き改められているだろうと疑うのが当然である。飛鳥・奈良王朝が勝者であり、出雲、熊襲、蘇我氏が敗者なのであろう。坂上田村麻呂と源義家が勝者であり、阿弖流為や安倍貞任が敗者なのであろう。

明治維新だって、薩長土肥を官軍、徳川・長岡・会津を賊軍というのは、勝者の歴史観であり、中立的に見れば西軍と東軍の戦であっただろう。

対談記事”「薩長史観」を超えて”は、次のような切り口から始まる。《2018/2/20》
今年は明治百五十年。安倍晋三首相が今国会の施政方針演説を維新の話題から切り出すなど、明治時代を顕彰する動きが盛んだ。維新を主導した薩摩(現鹿児島県)、長州(現山口県)側の視点で「明るい時代」と明治期をたたえる「薩長史観」は根強い。来年四月末に平成が終わり、改憲の動きが活発化する時代の節目に、近現代史に詳しい作家の半藤一利さん(87)とノンフィクション作家の保阪正康さん(78)が語り合った。

(1)日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部
日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史をつくりました。しかし、公表したのは、日本人がいかに一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアをいかに倒したか、という「物語」「神話」としての戦史でした。海軍大学校、陸軍大学校の生徒にすら、本当のことを教えていなかったんです。《半藤一利》

(2)軍事主導 国家の設計図なく 天皇を戦争に誘導
結局、明治政府ができてから西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。江戸幕府を倒したが、どういう国家をつくろうという設計図が全くなかった。薩摩も長州もね。《半藤一利》

(3)天皇 大元帥兼ねるのは危険 「元首」案は明治と同じ
憲法の中心に天皇を置くのと同じように、軍事のトップに大元帥としての天皇を置いたわけです。明治憲法で天皇と軍事を扱う項目は大ざっぱにいうと二つだけです。「天皇は陸海軍を統帥する」「陸海軍の編成と予算を決定する」。大元帥陛下をトップに立て、一方に憲法の定めるところの内政と外交を主に見る天皇陛下がいる。天皇と大元帥の二つが一つの人格の中にあった、と考えると非常に分かりやすい。《半藤一利》

(4)教訓 北朝鮮は戦前日本と類似
開戦前の大本営政府連絡会議で戦争終結に関する腹案というのが了承されてます。主観的願望を客観的事実にすり替えている内容で、これが戦争前の日本のすべての判断の根幹にありました。エリート軍人は無責任で、まったく国民のことを考えていない。彼らは日本の伝統や倫理、物の考え方の基本的なところを侮辱したんだ、その責任は歴史が続く限り存在するんだということを次の世代に伝えたいですね。《保坂正康》

半藤氏と保坂氏の著作への向き合い方は様々であろうが、日本はなぜ日中戦争から太平洋戦争へ突き進んで行ってしまったのか、歴史というもの歴史書というものにどのように向き合うべきなのか、示唆に富む対談である。

半藤氏は言う。
「北朝鮮に元に戻れというのは無理でしょう。昭和史を勉強すればするほど分かるが、ある程度のところで凍結して話し合うべきだ。一番やってはいけないのは石油を止めること。旧日本軍のように「だったら戦争だ」となる。そういう教訓があるんだから、話し合いの席に導き出すような形に早くするべきで、いわんや安倍さんが言うように圧力一辺倒なんてとんでもない話だと思います。」

歴史を学ぶときにほとんど神話で構成される古代史から始めるよりも、近代史からさかのぼって学ぶべきであると茫猿は考えている。けれども、近代史といえども勝者や時の権力者によって改ざんや隠蔽がなされているとすれば、歴史に向かうとき人はよほど心して対座しなければならない。大河ドラマはまごうことなきフィクションなのであるが、それにしてもドラマの終わりに「このドラマはフィクションであり、必ずしも事実には基づいておりません。」というクレジットが出ないのはなぜだろうかと考える茫猿である。

中村彰彦氏は中日新聞連載コラム「幕末、明治の残照-105:208/2/27掲載」に云う。
「幕末とは1842年(天保12年)幕命撤回事件に始まり、1877年(明治10年)西南戦争終結までをいい、それ以後が明治である。」
※幕命撤回:庄内藩、川越藩、長岡藩の三藩国替えを命じる幕命が撤回された事件。庄内藩の領民による国替え撤回を訴える直訴が背景にあった。《藤沢周平著・義民が駆ける》
※中村彰彦:作家、会津藩士秋月悌次郎を描く「落花は枝に還らずとも」がある。

梅が咲いた。数日前から咲き始めた梅花を記事にしようと考えていたが、薩長史観記事が目にとまりそちらが主題となった。梅香に裏史観とは野暮なことだと思うけど、明治維新(薩長史観)と御一新(江戸庶民史観)の違い、日露戦争からノモンハン事変やインパール作戦を経て終戦に至る経緯など、知らない人が多すぎるのが気にかかる。終戦と記したけれどポツダム宣言受諾にともなう”無条件降伏”は終戦などではなくて、敗戦なのだということさえ気づいていない人が多すぎる。

終戦という言い換えも歴史改竄の一つであろう。改竄と言って悪ければ、すり替えであり目くらましや目逸らしの類であろう。占領軍を進駐軍と言い替えたのも同じこと、言霊の国日本(ニッポンではない、ニホンである。)なのである。せめてものお口直しに梅花をどうぞ。

萼は赤いがこれも白梅である。上掲の梅は萼が緑色である。

開花期が一ヶ月も早かったせいで、雪や氷雨にうたれた紅梅。今日は午後から暖かくなり畑の春耕をしていたら汗ばむほどの陽気である。もうすぐ三月、3月になれば諸々の種まきや種芋の植え付けなどが待っている。冬眠は終わり、晴耕雨読の日々が始まる。

《2018/02/27 追記》 今朝は蕾だった福寿草が咲いた。昨秋に陽当たりが良くて寒風が当たらない場所に植え替えた。植え替え時期が遅かったから今年の開花も遅かったが、来春は正月中に咲くだろう。

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