ふたりの釋 了玄

 先号記事で父(2010.12.2没)が遺した書籍を町の図書館へ寄贈したことを書いた。その父には六人の姉妹がいた。5人の姉と1人の妹である。茫猿が物心ついた頃には十分に婆様だった長姉とは20歳近く(以上だったかも)年が離れていたと記憶する。全て明治生まれの姉5人は父の生前中に既に亡くなり、大正2年(1913)生まれの父の死後も達者でいた昭和2年(1927)生まれの末妹が先週亡くなった。

 私と17歳しか違わないから、少し年の離れた姉という感じで長年過ごして来た叔母である。実際に亡くなるまで「叔母さん」と呼んだことは無く、幼児の頃からいつも「お姉ちゃん」だった。

 その父につながるただ一人の血縁の叔母が亡くなって、彼女の息子から託された文書があった。「古びていてよく分からないから、何か確かめてくれ」というのである。森島を名乗り我が家系に伝わる仏壇を守ってきた分家の叔父叔母の遺品の一つでもある。

 そのなかに確かに判別できるものとして、曾祖父及び曽祖母が明治の半ば頃に、真宗大谷派本山信濃善光寺、それに高野山蓮華院に先祖供養料を寄進した受け取り証が数点あった。

 もう一点の古びた法名軸は我が家初世とされる「釋了玄」(文化2年 1806年没)の法名が末尾に記載されているから、彼が作製した法名軸であろうと推量される。その法名軸に記載される初世は俗名辰右衛門、法名はこちらも「釋了玄」(享保5子年 1720年没)とある。

 確認できたのは俗名及び法名と没年と享年81歳ということだけである。住まう場所が仁木村下大榑新田なのか羽島郡笠松町なのかも定かではない。それでもこれで少なくとも、我が家の歴史が80年余遡って確認できたということである。お姉ちゃん(叔母)が引き合わせてくれた我が家の遠い御先祖である。過去を知る人が誰もいなくなった最近にして、我が家の知り得るご先祖が更に古くなった。

 他に、釋尼妙玄:享保9年(1724)没62歳、釋良壽:享保6年(1721)俗名勘右衛門 享年44歳、釋尼妙玄:宝暦5年(1755)没 64歳、釋良西:俗名四郎右衛門享保20年(1735)没 享年52歳、釋尼妙玄:寛政11年(1799)没などが読み取れる。因みに筆者茫猿は我が家九世であるが、享保・釋了玄から数えれば11世若しくは12世となる。

享保年間は第8代将軍徳川吉宗によって主導された幕政改革である享保の改革(1716〜1735年)で有名である。 宝暦は薩摩藩の御手伝い普請である宝暦治水(1754〜1755年)で歴史に残る年号である。

 この手の身内話を「鄙からの発信」に載せるのは茫猿(筆者)らしからぬと思うけれど、考えてみれば筆者も齢77、老い先短くなってみれば我が来し方がそぞろ気になってきたとも言える。それに偶さか(タマサカ)のことではあるけれど、父の姉妹の最後の一人が亡くなって寄る辺も薄くなったという思いが為せるわざでもある。これも終活のひとつと云えようか。

 もうひとつ、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)蔓延の折から、With CORONA とか After CORONAなどと賢しらに騒ぐSNSなどを見るにつけても思わされる。新幹線もJRだって整備されていない明治期に遠路を信濃善光寺や高野山へ詣り、何がしかの寄進をし亡き人々の菩提を願った御先祖様方の生き方をゆかしく思うのである。

明治24年10月の震災とは1891年10月発災の濃尾大震災のことであろう。
その関係の寄進か何かと思われるが、筆者の読解力では詳しくは読み取れない。
本山とは真宗大谷派本山のことであろう。

こんなもの(借用証書?)もあった。年号(嘉永6年丑4月?:1853年)も契約者氏名も確かには読み取れないが、我が五世御先祖勘右衛門(釋了教、36歳の頃?)が借りたのではなく貸した側のようである。発見された法名軸に載る釋了壽(こちらも勘右衛門)では年代(享保6年没、享保、正徳、宝永)が合わない。

嘉永6年丑 4月 宛先下大榑新田 勘右衛門

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