花の散るらむ

この春も花の散る時季となった。チューリップが赤白黄色と咲き誇るなかに雪柳は白い盛りを過ぎ、ナンキンハゼが紅い芽をふき出してあり、御衣黄が﨟たけた浅緑の花弁を開くのも遠からじの今、鄙桜は若緑の新芽を浅緑に移し白き花は薄紅色を増し紅色に近くなって風にゆすられるがごと散り始めている。

梅は半ばが佳し、桜は残が佳しと記したのは 2012年3月1日、まだ梅が開きつつある頃だった。しばらく引用してみよう。

梅が開きつつあります。紅梅は三分から五分、白梅は二分から三分でしょうか。梅は満開も薫り高く佳いものですが、「梅は二分、三分を良し」とよく聞きます。春早くまだ寒きなかに、一輪二輪と咲いてゆき香りがほのかに漂ってくる、この春の到来感も合わせ、梅の樹形姿も合わせて、三分咲の梅を佳しとするのでしょう。

桜の満開も匂い立つ感じがして良いものですが、風に誘われて散りゆく頃がとても佳いのです。 だから「梅は半ばが佳し、桜は残が佳し」なのだろうと思います。 咲き初めの梅であり、散り初めの桜なのでしょう。

《二分の白梅》
梅の花 いろこそ見えね 風吹けば 月の光の にほふなりけり
(飛鳥井雅有)
春の夜の やみはあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる
(凡河内躬恒)

《蕾固き鄙桜》
青丹によし 奈良の都の さく花の にほふが如く 今盛りなりけり
(小野 老)
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
(紀友則)

咲き初めの梅を眺めつつ散り初める桜を思うなどと、まだ若かったのか、ただの感傷なのか。未だ新スキームなんぞにもかかわっていて、数日後に琉球へ旅立つ前の高ぶりか。それから八年が過ぎ、世間とのかかわりも途絶え、歳を重ね体力も気力も昔日とは比べようもなくなった今は、同じ花のうつろいが、とてもいとおしく名残惜しく思える。 名残惜し 名残惜し 来春もまた 会えるかや 来春が有るのかや。

窓いっぱいに広がる花は、灯りを受けて風に揺れている。この桜が此処に植えられてから何年経つのだろうかと考える。小さな苗木を植えたのは私が四十前後の頃か、丁度雑木林の池を掘り返し始めた頃だろうかと思う。確かな記録は残していないが、「花見にご招待: 2005年4月13日」記事に掲載する写真を見れば、すでにそこそこの桜である。この時で20年は経ているとすれば、現在の樹齢は35年ということになる。おおよその推定樹齢35〜40年くらいか。

今朝の鄙桜は散り初め、川面には花筏が見える。川面に近い枝はもう葉桜、梢はまだまだ咲き誇っている。そして此の春も過ぎゆく。何故に然程に走り過ぎゆくと思うに、でも春は駆け足で遠ざかってゆく。

40年、この場所で、様々なことを見てきた桜である。 これからも、幾多のことを見てゆくであろう桜である。新型コロナ感染症騒動で花見が自粛され、各地の桜の名所は静かだとテレビが伝える。静かな名所の樹齢百年二百年の銘木桜を画面で見ながら、我が鄙里の百年後などとつい夢想する。山桜も枝垂も御衣黄も八重も大島も河津も達者で永らえているだろうか、草に埋れ枯死しているだろうか。詮無いことだが、花鄙里に想いを馳せることくらいは許されよう。

十年一昔というが、2005年4月の記事に写真がある桃は随分前に枯れたし、コブシも枯れかけている。十有余年も過ぎれば木々も人も変わる。変わらぬものは何一つも無い。《読み返してみれば、何ともはやどうしようもない駄文だ、でも削除はしない。》

過ぎ行く一刻一刻がいとおしく感じられる。惜しいというのではない。時は過ぎゆくもの、流れ去るものである。諸行無常なのであり、常なるものなど何一つないのである。目の前に散りゆく花びらがいとおしい、色鮮やかに芽吹き刻々と若葉の色を増してゆく木立がいとおしいのである。次の年も花見は出来ようが、今年と同じ花見は此の春だけのものと思えば名残尽きない。花も変わる我も変わる、変わらざるを得まい。

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