玄侑宗久著「阿修羅」を読み始めている。内容を知って買い求めたのではない。玄侑宗久和尚の著作を読みたくなって幾冊かをiNet購入した そのなかに近作「阿修羅」があったというわけである。
新書や文庫は茫猿の目には少し辛いから、ハードカバーの帯に記される惹句にも惹かされて、「荘子と遊ぶ」、「問いの問答」、「中陰の花」、「多少の縁」、「21世紀のあくび指南」など同時に配送されてきた それらより先に手に取っただけのことである。 読み始めて驚いた古刹の住職が書くものとも思えない、冒頭から渡辺淳一か宇能鴻一郎の小説みたいである。
しかし今、変幻する海はそのまま実佐子という存在の恐ろしさを想わせた。穏やかに凪いだ海が急に泡立ち、深い溝で割れてその一方が白い飛沫になって盛り上がってくる。あるいは静かにどこまでも引いていった水面が、高波になって六階のこの部屋まで押し寄せてくる。そんな錯視を、知彦は昨日も今日も体験した。
シャワーを出しつづけたまま、女は一度はだかで走り出てきた。
「まったくダサイ水着よね。そうは思わない?」
そう言って実佐子が着ていた薄緑と白のストライブのワンピースを壁に向かって放り投げ
た。呆気にとられる知彦の前で、女は素っ裸のまましゃがんで実佐子のトランクから小さなピンクのポーチを取りだし、まるで挑戦するみたに知彦に顔だけを向けた。
「‥‥‥実佐子」
そう呼びかけるしかなかった。
すると女は待っていたように「あたしはあいつじゃないわよ」と怒気を含んだ声で答え、小
ぶりのポーチを胸元に持ったまま、「トモミよ」と言って立ち上がった。
これからどんな展開が待っているのか、改めて帯を眺めると「阿修羅像を多重人格として読み替える 美しくも大胆な試み。 小説家の想像力が またひとつ 「解離」の扉を開けた。-精神科医 齋藤環 とある。
《2011/02/14 追記》
渡辺淳一か宇能鴻一郎かとは失礼な書きぶりでした。 思わせぶりな描写は冒頭の引用部分だけで、その後は一切無しでした。 いくつもの人格が解離し、しかも同居する以上は、昼間の日常生活における異なった人格の出現だけでなく、寝室における出没も興味深いというよりは、ベッドの上における日毎違う出没にこそ人格の差異が如実に表れてくると考えるのは、解離性同一性障害という心の病について興味本位の考え方でしかないという、茫猿自身の心の品性を露わにする期待値であったようです。
記憶と意識、情念と無意識の脳髄の深みに潜む底なし沼のような有り様は、幼児期のトラウマが引き起こす人格の亀裂と片付けるには、あまりにも重くそして現代人が抱える心の闇の暗さを考えさせる物語でした。 物語の意外な展開はサイコ・スリラーを思わせるものがあり、最後まで一気に読ませると同時に誰もが持っている心のすり替えに逃げようとする心象が病にまで至る時の凄まじさを、まざまざと語ってくれる玄侑宗久和尚ならではの一冊でした。
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