もう旬日も前のことになるが、ドキュメンタリー映画「立入禁止区域・双葉:されど我が故郷」の上映会に行ってきました。 上映会の呼び掛け人に名前を連ねているA.Tさんからお誘いを頂き、彼いわく「受付付近に私がいますから、私から入場券を購入して下さるとカオがたちます。」という惹句にも少しは義理立てしてのことでもありました。
「原発と子供たちの未来を考える」と題される集いの、当日のプログラムはこのようなものです。
第一部 ドキュメンタリー映画 立入禁止区域 双葉 ~されど我が故郷~
映画の予告編 You Tube
第二部 原発難民の詩・朗読 対談トーク:映画監督・佐藤武光、元富岡町図書館長・小貫和洋、双葉高校OB
原発事故の影響で立入禁止区域となってしまた福島県双葉町、浪江町の惨状を映し出す映画を観ながら茫猿は、 2011.04に岩手県大槌町、釜石へ、2011.11に仙台若林地区へ、2012.03には気仙沼、塩屋岬などを巡った時の追体験をしていました。
私には、自分が見たものを、言葉にして伝える力がありません。テレビ映像や新聞報道から想像していた状況と同じなのですが、被災地の真ん中に立った時感じたものを表現する力はございません。 車の音は聞こえます、海鳥の鳴く声は聞こえます、ときおり人の声も聞こえますが、異様なほどの静寂を感じます。 常であれば潮の香りが漂っているはずです。 常であれば町なかの様々な音が聞こえてくるはずです。 買い物客の会話、交差点の信号音、行き交う車、いつもの町のいつもの光景のありふれた音や景色があるはずです。
何もありません。 あるのは破壊された残骸と瓦礫の山、他には所々で作業する警察や自衛隊の人たち、何かを探すのか佇んでいる人、かつての町の中心街をはずれた山あいの、とある入り江には人影もなく、残がいすらも波にさらわれたのか建物の跡らしきものと潮風の音だけがあります。 海が間近なのだから潮の香りを感じるはずなのに、被災後一ヶ月半を経ても漂ってくるのは表現し難い異様なニオイです。 目を山側に移すと、なぎ倒された木々のあいだに人々の生活の痕跡を示す様々なものが、津波の到達位置を示すかのように残されています。
《 被災地の桜 Posted on 2011年4月28日 より再掲》
文章や映像は多くのものを伝えますが、伝えきれないものも残します。 想像力をかき立てても伝えきれないものが残ります。 それは現場の風であり匂いであり、これだけは東日本大震災の記録映像でも阪神淡路大震災記録映像でも伝えきれないものであり、追体験が不可能であり、そして一番先に風化してゆくものでもあるのだと思います。
2011.03.11からもうすぐ二年になります。 復旧復興が進みつつあるところ、未だ手つかずのところ、現地ではそれらの濃淡がモザイク模様のようになっていることであろうし、それを伝える報道もありますが、世間の関心は円安景気やTPPやPM.25へとうつろいつつもあるようです。
原発というものが、建設計画当初から少なからぬ反対意見があったにもかかわらず、北海道から鹿児島県まで、13道県に17か所の原子力発電所があり、54基が建設された理由は幾つか挙げられるであろう。 その主なものは電力の安定供給、化石燃料依存からの脱却、CO2削減、経済合理性などが云われてきました。 しかし使用済み核燃料その他の大量廃棄物処理、運転終了後の原子炉解体処理費と廃棄物処理、何よりも活断層や津波についての安全性、などなど経済合理性だけをとらえてみてもその論拠が破綻していることは既に明らかになっています。
それでも運転停止中の原発再稼働や建設停止中の原発建設を再開しようとする政府や経団連の動きは、あまりにも短期視点に過ぎると考えます。 円安効果による原油や天然ガスの高騰は電気代上昇を招き、経済的視点からの原発再開論を後押しすることでしょう。
被災地の復旧復興についても、その早期着工完成を願う人たちと、関係者の合意形成を目指す人たちとの軋轢や亀裂が深まっているとも聞こえてきます。 拙速か巧遅かなどと一括りにはできない奥深い問題が潜んでいるのでしょう。
今、困っている人たちへ速やかな手当が必要なことは云うまでもないことですが、故郷の復旧復興という息の長い課題については拙速、巧遅にとらわれない長期的視点が欠かせないでしょう。 粘り強い議論や意見交換と、合意形成を急ぐことよりも互いの立場への理解醸成こそが求められているのであろうと考えます。
宮城県女川中学校生徒2年一同の訴えがデジタル朝日新聞に掲載されている。
「宮城県女川町立女川第一中学校2年生一同 訴え「私たちが考えた三つの津波対策」全文」
要旨を抜粋すれば、 一つは、「互いの絆を深める」ことです。 非常時に一人一人の命を守るためには、ふだんから互いの絆を深めることが必要だと、大震災での体験で感じました。もっと絆を強くしておけば、避難を呼びかけて亡くなってしまった、友達の大切な祖父や多くの人たちの尊い命を守れたはずです。
二つ目は、「高台へ避難できる町づくり」です。住宅や病院、学校などは、津波が絶対に来ない高台に移します。でも、女川では漁師さんや加工場の人たちは海沿いで働くことになります。そこで、夜でも、初めて来た観光客にも分かるように、太陽光パネルを活用した避難誘導灯と高台への広い避難路を整備しておくのです。
三つ目は、何より大切であり、私たちがぜひ実現したいと願っているのは、この大震災の出来事を「記録に残す」ことです。 社会の授業で様々な本や新聞を調べましたが、津波の記録が私たちの体験と違っていました。今ある記録だけが残ったのでは、きっといつかまたこの大惨事が繰り返されてしまいます。 そこで、女川町内にあるすべての浜に最大の津波が来た所に石碑を建てます。 その石碑の周りには、3日分の食料や水を備蓄しておき、毎年3月11日、全員で避難訓練をし、震災のことを書いた私たちの本を子どもや孫に代々語り継いでいくのです。
私たちも今、あわてて物事を片付けるのではなく、千年後の大震災の前にいる私たちが、千年後の人々の命を守るために何をすべきかを真剣に考えながら、一日一日を大切に生きていきたいと思います。 私たちはまず、千年後の女川の一人ひとりの命を守るために、女川町内にある21の浜すべてに石碑を建てるための約1千万円を、この金額を100円募金で集めたいと考えています。 《女川第一中学校2年生一同》
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