過日、中日新聞のコラムに「年寄りの礼儀」と題する記事が掲載されていた。
次姉の葬儀には出席しないという高齢な長姉の処世観について、末妹の娘(姪)が感想を語るという内容である。賛否両論あるだろうが、高齢化が進む世の中であればこそ、考えさせられる問題である。
長姉が次姉の葬儀に欠席する理由は、高齢故に葬儀式場で粗相をして迷惑をかけることを恐れてのことであった。本当は行きたいけれど遠慮して、妹の旅立ちを自宅で静かに送るというのである。それが年寄りの礼儀であるともいう。 このことで思い出すことがある。
父の葬儀でのこと、先に亡くなっていた母の次弟《この時彼は八十を越えていた》が、席上で意識が遠くなり、救急車で病院へ運ばれるということがあった。幸いなことに病院で応急措置を施されると、叔父は平常に戻り入院することもなく自宅に帰った。葬儀も出棺直前まで進んでいたから、大きな騒動になることもなかった。《父の葬儀は十二月の初めだったが、特に寒い日でもなかった。》
叔父は実姉の葬儀ではなく、姉が亡くなったあとに姉の連れ合いの葬儀に出てくれたのである。義理がけと云っては叔父に申し訳ないけれど、「ご無礼します。」と言われたところで、喪主である茫猿は素直にうなづけただろうと思える。《明日は、その叔父の一周忌法要である。》
茫猿はかつて、業界の先輩が選んでいるという生き方を伺ったことがある。
それは「三カク」を信条とする生き方である。 三カクとは、「義理を欠く」、「見栄を欠く」、「恥をかくのを厭わない」という三つの「カク」である。 当時、先輩は六十半ば過ぎ、茫猿は三十半ばだったか、年を取ればそういうものかと思ったのであるが、自身が七十を超えた今、彼が信条とした生き方がうなづけるのである。
「義理を欠く」 現役を退いて数年を経た今、顔も見たことがない方の葬儀に出ることなど、寒い時や暑い時には真っ平御免である。義理で葬儀に出ることなど、もう必要のない身分と思えるのである。 葬儀に限らない。義理を斟酌しなければならないような集まりなど、ご免なさいである。
「見栄を欠く」 今や収入も大きくダウンしている茫猿である。必要を感じない支出は極力避けたいものである。意味のない飾り立てなどにこだわることなく生きたいと願うのである。飾り立ては葬儀の香典支出だけではない。身にまとう衣服や外出先での支出の総てについて背伸びはしたくないと考えている。 たまに、後輩が珈琲や食事を奢ってくれることがあるが、最近の茫猿はすなおに「ごちそうさま」と礼を言って、好意に甘えることにしている。
既に現役末期のころから、公的会議であってもダークスーツ着用は止めていた。ジーンズ着用・ノーネクタイを年がら年中通していたものである。時に失礼かなと思うときもあったが、あえてジーンズ・ノータイ主義を通していた。 鑑定協会理事会にて皆がダークスーツ着用のなかでただ一人ジーンズ・ノータイだったのである。《ジーンズ生地の上着は着ていた。》 最初は違和感もあったろうが、のちには自分も慣れてしまったのである。
「恥をかくを厭わない」 これは結構難しいものである。先のジーンズ・ノータイ主義も見方を変えれば、恥をかいていると云えなくもない。 年齢を加えるにつれ、耳が衰え目が霞んでくる。物忘れも頻繁に起きる。判らない流行語やカタカナ言葉も多くなる。そんな時は、中途半端に判ったふりはしないことである。 知らないことは知らないと素直に言う。聞き直すこともいとわない。
コンビニのレジで小銭を出すのにモタモタして若いアルバイト店員が舌打ちしても聞き流す、スーパーのレジで、後ろで待つ方がイラついていても、さりげなく「御免なさいね」と言う。こんなことは恥でもなんでもないのかもしれない。でももう少し若い頃は、スマートに手早い所作をしなければと思ったものである。しかし今は、前期高齢者は高齢者のごとくにあろうと思っている。《レジの順番を待つ間に、財布と小銭入れを用意しておくくらいの気遣いはしています。》
そのうちに、思わぬ場所でつまづいて人の流れをせき止めたりするだろうが、悠然としていたいものである。既に右目が不自由な茫猿であるから無理な所作は無理なことと、わきまえていたいものである。《自覚症状は乏しいが、トイレが近くなってもいるようでもある。大恥をかく前にトイレがあれば利用するという癖を付けておきたい。かつて一緒に三泊、四泊の旅行をした十年先輩のムーさんは、必ずといっていいくらい、トイレがあれば利用していたものである。》
年齢を加えるということは、何かを減らしてゆくことでもあろうと考える。浮き世のしがらみにいたずらに縛られることなく、自由とも気ままともいえる生き方を選んでゆく、無理を重ねれば思わぬ迷惑を廻りに及ぼすことにもなりかねない。 そう思えば「三カク」は加齢者の礼儀でもあろうと考えるのである。
今年は花を咲かせないのかと気になっていた馬酔木《アセビ》が咲いた。しかし、例年より花付きが悪い、今年の馬酔木は裏年のようである。《花が遅いと思っていたのは茫猿の勘違いで、このサイトの過去記事を確かめたら、昨年も一昨年も五月末に開花していた。花はそれぞれ時分を見計らって咲いている。馬酔木の他には、今はサツキが満開である。わずかだがバラも咲いている。シャクヤクや大山蓮華はもう終わった。》
《蛇足である》
“三かく” には類説があるようで、「義理欠く・欲かく・恥をかく」をもって財産を残すとか、他にも「義理欠く・人情欠く・恥をかく」、「汗をかく」「恥をかく」「ものを書く」など諸説あるようです。 いずれの説にも恥をかくが含まれているようで、処世のうえで恥をかくことを畏れてはならない、恥を畏れて萎縮してはならないと諭しているようです。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥とも云います。
「汗をかく」「恥をかく」「ものを書く」説は高齢者向けには、汗をかく運動をせよという意味だろうし、若者向けには他者の為に汗をかけという意味でしょう。デジタル時代であればこそ、筆を持って文を書け、あるいはメールではなく手紙や葉書を書けとも受け取れます。 考えてみれば、こうして「鄙からの発信」を書き続けるのも、多少はものを考え、推敲もするし語句や言い回しなどを考えるから、いわば惚け防止になるのかもしれない。
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