巧遅拙速とか創業守成などといった反意語あるいは対比させて論じられる語彙を思うことがしばしばである。いずれが易くいずれが難しというものでもないし、一方に偏すれば過ぎたるは及ばざるが如しということになろう。というのも齢を重ねたせいで多少は目配りができるようになったせいだろうか。
北陸新幹線が金沢まで開業して金沢・富山は賑わっているそうである。飛騨の高山へも、東京からは名古屋経由が一般的であった経路も、金沢、富山経由と云う新規路線が注目されていると云う。
ゆっくりと時間が流れてゆくのが過疎地や山間遠隔地の良いところと考えているけれど、現実に居住する人々にとっては新幹線や高速道路が欠くべからざるインフラなのであろう。 リアルの時間はゆっくりと流れるけれど、バーチャルの世界ではインターネットという強いツールを得て時間差を無くしつつあったという「ある種の優位性」が、新幹線開通でリアルも慌ただしさを増しただけということになりはしないかと、ひとごとながら懸念する。 速さを追いかけるというのは合理的なことであるが、合理性を追求してゆくということは、失ってゆくものも多いのである。
不合理とか非合理という、合理の対極に存在するもの、或は合理だけに偏らないあるいは淫しないことがとても大切だと思われる。 速さとくに変化の速さというものが、人間の成長速度をあまりにも大きく上まわり過ぎたのではなかろうかと思われてならない。
一昨日は叔父の一周忌法要にお参りした。献杯の挨拶を頼まれて考えた。
月並みだけれど、とても月並みだけれど、月日の経つのは速いものである。一年と云う時間が巡りすぎて、叔父は居なくなったけれど、叔父の丹精した椿は大輪の花を咲かせているし、満天星は蕾を大きく膨らませている。主亡き庭にも春は巡り来ている。なんの脈絡もないけれど、一年と云う時間が巡って、春夏秋冬が一巡りしてまた春が到来し花が咲くと云うリズムが、何やら得難いもの有り難いものに思われてくる。
昨日は五十年来の知己であるN村君の見舞に出かけた。数年前から何やかやと病を得て闘病生活を余儀なくされていたけれど、とうとう自力では歩行できなくなって入院したと聞いたのである。 会話も覚束ないし、いまさらに慰めも元気づけも、なにやら白々しいのである。 彼はこの数年のあいだに、長年営んだ仕事を手仕舞いし、店舗兼住いを手放しマンション暮らしに転居して余生を送る準備を進めてきた。 すべての手仕舞を終えたら入院介護を余儀なくされたということである。
「きれいに手仕舞できて良かったな、病室で思い煩うことも無い。」と無遠慮に話したら、かすかな微笑みを浮かべて頷いていた。 「でもまだ悟るなよ。もういちど祇園まちで酒を呑もう。車椅子は俺が押してゆく。」と言えば涙を浮かべて頷いていた。
「思えば、互いに佳き時代を無事に生き抜いてきたもんだ。 七十過ぎるまで大病せず、破産もせず、たいして財産は持ってないが借金も無い。女房子供は今のところ無事に過ごしている。 これで、あと二三度は祇園まちへと言えば欲が深すぎるか。」
鄙桜の開花はもう間近である。昨年の記事を検索したら、四月二日に鄙桜開花とある。今年も両親や叔父を偲んでの夜桜にするか。
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