病と人生観

身近な人たちの病とのつき合い方、特に癌という病を得た始まりを幾つか見ていると、そこに投影されているその人たちの運不運だとか人生観というものを考えさせられる。

つい最近に、前立腺癌を発症した彼の場合はこうである。かかりつけの主治医のところで行った血液検査で不審値が認められ、総合病院で検診を受けたところ「特に異常値は認められません。」ということだった。「両者に違いが生じた理由は判らないが、まま、あることのようだ。」 普通なら診療所よりも総合病院の検査結果を優先して「何事も無くて良かったな」となり、終わるのであろう。

彼は違っていた。主治医の行った最初の検査結果の不審値を気にかけてと云うか、気持ちを納得させる為に生検《患部の一部を切り取って,顕微鏡などで調べる検査》を依頼したと云うのである。その結果、早期の前立腺癌が見つけられたと云う。”もう一押し、念のため”という彼の人生観というか身の処し方が早期発見につながったと考えている。

さらにその後がある。前立腺癌腹腔鏡手術、ロボット支援腹腔鏡手術、放射線照射、粒子線治療など幾つかの治療方法について病院での説明を受けたのち、診療所の主治医に相談し意見を求めたと云う。そして主治医の意見を踏まえて、治療方針を定めたのである。彼の入院手術は来月始めに予定されている。無事に手術が済み快癒することを期待している。

身近に主治医《かかりつけ医》をもっているか否か、医者任せにせずに自ら一歩踏み込むか否か、そのような生活や考え方、おおきく人生観と捉えてもよいであろう。人生観が病とのつきあいに大きく影響するのだろうと考えさせられた件《くだり》であった。

病とのつきあいには、定期検診の有無、治療方法の選択 セカンドオピニオンの有無などが事後に大きな影響を与える場合が多いのだろうが、運不運も左右すると考えている。 一般の集団検診で早期発見でき完治する幸運な者もいれば、スキルス性だったり検診周期の谷間だったりして発見が遅れて大事に至る者もいる。特に病の進行が早い若年層や壮年層の場合には、運不運では片付けられないが、それでも運不運と云わざるを得ない場合があるように考えている。

特に癌に特有といえるのだが、発見時のステージ《病気の進行度合い》と年齢の相関関係はとても重要なことに思える。茫猿自身は七十を越え現役を退いた身である。社会的に無用の存在とまでは卑下しないが、一つの役割を終えた身であれば、発見時のステージによっては、いたずらな治療は好ましくないと考えている。その場に臨まなければ計り知れないことであるけれど、自分自身で確かな選択をしたいと考えている。

母の病《肺腺癌》を知った時に、主治医をはじめ複数の医者と治療方針について何度かの相談をしたのだが、その時に私が決まって前置きした「セリフ」がある。「症状はよく判りました。治療方針の選択も判りました。そこでお伺いします。この患者が先生の母上だとしたら、どんな治療方法を選択されますか?」 このような問いかけが有効なのか否かは知らない。無意味なのかもしれない。でも、当時に私よりも一回り以上も齢若な医者に問いかける言葉としては、とても有効だったと今も考えている。

梅雨晴れの青空に白さが映える夏椿《沙羅:しゃら》が咲き始めた。早朝に花開き、夕べには散ってしまう儚い花であるが、梅雨時を慰めてくれる花でもある。2015natsutubaki

 

今や茫猿は、特に病など得ること無く、ある朝目覚めること無く幕を引ければ佳いなどと考えているが、病が避けられないとすれば脳梗塞や心筋梗塞に比べて癌は悪くないと考えてもいる。その癌にしても、見聞きすることが増えてくると、随分と様々な症例がある。どう向き合うか、つき合ってゆくのか、折節に考えておくのも悪くはないのであろう。

 

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