半世紀の交遊に幕

《半世紀の友情に幕降りる:茅の輪・御土居・上七軒》
四月半ばから京都・北白川のホスピスでターミナルケアを受けていた友が一昨日逝きました。昨夜は通夜が、今日は葬儀が営まれました。この数日間は何も食せず、口を湿らせるだけの水で過ごしていたそうです。眠るがごとき従容とした最後だったと、奥様より伺いました。

通夜勤行が始まる小一時間前に斎場へ伺いました茫猿は、ご遺族のお許しを得て正信偈一巻を、精一杯の声をあげて読経し彼に捧げました。

大学に入学した四月に出会った時、私は十九歳、彼は二つ年長の二十一歳でした。中学の時に肺を患い二年間の療養生活を送ったが故の年長でした。 二歳年長であったこと、療養生活を経験していたこと、そして高校時代から家業を手伝っていたことから”おとなの雰囲気”をまとっていた彼との交遊を得たことで、私の学生時代がどれほど彩りを増したことか、感謝し尽くせないものがあります。

家庭の事情もあり、大学に入学してすぐにフルタイムのアルバイトを始めたものですから、毎日が大学、アルバイト先、寝るだけの下宿という繰り返しでした。 また日曜祝日は書き入れ時となる喫茶バーテンなどの仕事についていましたから、学生仲間と遊ぶこともままならないし、サークル活動《所詮無理だった学生新聞》も夏休み前には止めてしまっていました。

だから彼・博一との付き合いが無ければ、彼を通じてひろがっていった学生仲間達との付き合いが無ければ、私の学生時代はどんなに無味乾燥なものになったことだろうと思い返します。 また折々に声掛けてくれた彼のアドバイスが無ければ、私のその後がどんな人生を歩んだのだろうかとも思い返します。 卒業後しばらくして再会し名刺を交換したら、何の肩書きも無いのは私だけで、皆は部長・課長とか、なかには常務・専務という肩書きを付けていて、《今に見ていろ僕だってと思ったかどうかは定かでありませんが》随分と刺激されたことをかすかに憶えています。

彼と彼を通じてひろがった、多くは中小企業者などの子弟である友人達との交遊の輪は、様々なものを私に与えてくれました。私には無縁だったサークル活動を覗き見ることもありましたし、家業を手伝う彼らを通じて中小企業の現場も垣間見ました。彼らの家庭に招かれて泊めて貰ったことも何度かありました。

木屋町だったか先斗町だったかで酔い痴れて、当時は走っていた市電も無くなった深夜の四条通を、千本三条の彼の家まで四キロほども歩いて帰った時は大変でした。 シャッターをガラガラと上げた音で、彼の父親が目を覚ましてしまい、たっぷりとお説教されたことを思い出しては、病床の彼と笑い合ったのは暫く前のことです。

紛うこと無く、一つの時代を共有した友が旅立ってゆきました。彼が人生を閉じただけでなく、私にとっても一つの時代が終わったと云う感覚を味わっています。 松田君が「五十年、あっという間だったなあ」と述懐し、縫谷君が頷いていましたが、今にして思えば風のごとく過ぎ去った半世紀でした。

浅い眠りのままに、早朝にホテルをチェックアウトした茫猿は、亡き博一君との思い出をたずねて京都の町筋を散歩しました。 千本中立売り・北野通り沿いの彼の旧宅兼店舗事務所跡から始まり、昨年始めに彼と松田と垣東と私が最後の宴会をした「居酒屋:よってこや」、梅の北野神社から桜の平野神社を廻り、そして上七軒にてモーニング珈琲をいただいてから、今日庵文庫の前を通って紫明通堀川東の葬儀斎場へと向かうのです。

北野通りに明治33年から昭和36年まで走っていた市電《北野チンチン電車》をモチーフとする歩道埋め込みタイル。20150630kitano

平野神社では夏越の大祓で茅の輪(ちのわ)くぐりが行われていました。友の通夜を過ごし葬儀を控える私がくぐって良いのかどうかは迷うところですから、遠くから写真のみいただきました。

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北野天満宮の西側では秀吉が築いた「お土居」の今に残る姿を眺めました。朱色の欄干の下、画面の左端先に流れる天神川の水音が微かに聞こえます。茫猿が早朝に歩いたこれらの道筋は、いわゆる西陣地区であり、デイープ京都でもあります。20150630odoi

 

《一夜明けて、追記》
昨日の京都からの帰りは大変だった。新幹線車内で焼死自殺をすると云う事件が起き、二時間近く全線運行が停止されたのである。大変とはいっても事件車両に乗っていたわけでも、線路上に停止した車両に乗り合わせていたわけでもない。京都駅フォームで運行停止直後から運転再開までの約1時間半を、わけも判らず待たされただけである。帰宅して事情を知って思った。これは自焼テロではないかと。

七月一日、朝から雨である。昨朝が雨であれば、北野道も御土居も茅の輪も無かった。 雨の庭を眺めながら思う。中村は居なくなった、今ごろ博一は何処にいるのだろう。人の死というものの意味をまた考えている。自らの死の意味は自らの生きることと同じ意味であろうと考えるようになって久しい。しかし、他者の死は自らにとってどんな意味合いがあるのだろうか、どのように受けとめたらよいのだろうか、また再び考えている。

 

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