昨秋に届いていた枕草子・方丈記・徒然草を、ようやくにしてほぼ読み終えた。枕も方丈も面白いが、徒然草がやはり面白い。なぜ面白いのだろうかと考えていて、ふと思いついた。
第三八段に名利を求めるくだりがある。
「まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。」
このような章《くだり》の羅列であれば鼻持ちならないだろうし、読み飽きるだろう。でも四六段には「柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。」とある。 この脈絡のない切り替わりが興深い。このオタ話にも等しい一行が、なぜ挿入されているのか。兼好法師はなにを意図してこの一行を加えたのか。単なる気紛れか、潜む寓意でもあるのか。
三二段にはこんな章もある。「よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらましかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。」
「跡まで見る」とは、「門送」のことであろう。門送りとは門送門迎《かどおくり、かどむかえ》と対で使われる作法のことである。来客があれば門先にて出迎え、客が去る時には門先で姿が見えなくなるまで送ることをいう。客が気配を感じて振り返れば、送る亭主が会釈を返してくれる。そんな優雅な気遣いを云う。
思えば玄関先まで見送られることなど、久しくない。鼻面で扉が音をたてて閉じられ、ピシリと鍵がおろされる音が聞こえてくる。慌ただしくも鼻白む送りと云うよりも閉め出しばかりである。葬儀でさえ、正しく門送を行う遺族が少なくなった近頃なのである。
枕草子にも似たような章の切り替えがあるし、少しばかり趣が異なるが方丈記にも似たようなくだりがある。枕・方丈・徒然と並び称されている”謂れ”は、そんなところにあるのだろう。石清水へ参り損ねた仁和寺の法師も、鼎を被った法師のことも同じ流れなのだろう。
月末に地下鉄北大路駅付近のうどん屋の壁に「喫茶去」の額を見た。喫茶去の幟の下で、売茶翁が茶を振る舞っていたのは鴨川畔のどの辺りだったろうかと、ふと考えた。
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