氷雨に読み伊吹颪に読む

まとめて本を読むことが少なくなっている。長時間の読書に右目が耐えられなくなっているからである。それでも本を読もうと思い始めている。きっかけは些細なことである。NHKの番組宣伝で一ヶ月も前から呼び声の高かった「ドラマスペシャル・荒神」があまりにも陳腐で掘り下げの乏しい番組だったので、改めて原作を読んで見たいと思ったからである。原作も陳腐であればそれで良し、なければドラマ制作の中途半端さということになる。それを確かめたくなったのである。なにせ春未だきのこの頃、何もすることが無いものだから。

荒神の原作者は”宮部みゆき”であるが、彼女の本は読んだことがない。でも同じくNHKで放映された映画「ソロモンの偽証」は面白かった。現実には有り得ない荒唐無稽なストーリーだけれど、エンターテイメントとしては見せるものがあった。なのに「荒神」は陳腐だった。だから、同じくNHKが取り上げている「孤宿の人」も合わせて読んで見たいと思ったのである。

新刊書を買うまでもないから、ブックオフに出かけて”宮部みゆき”を探してみた。
新潮文庫・孤宿の人は入手できたが、”荒神”は得られなかった。宮部探しはそこで中断して、書棚を渉猟していて買い求めたのが、「東野圭吾・聖女の救済、虚像の道化師、真夏の方程式」、いずれもガリレオこと湯川学の謎解きものである。そして高村薫・照柿である。伊吹颪(いぶきおろし)の荒ぶ日や氷雨の降る日の暇つぶしにと考えてのことである。

高村薫を買い求めたことから、息子たちが荷物整理で随分前に送り届け書棚に眠っていた高村薫・マークスの山、レデイジョーカー、阿部和重・シンセミアなども読んでみようと、手元に取り出してきている。これらが面白ければ、またブックオフ通いをしてみても良かろうとは思うけれど、暖かくなれば野良仕事に追われるだろうし、その前に右目が耐えられるかどうかが問題である。「マークスの山 」(440頁)を読み切った右目はすでに痛みを訴えている。

マークスの山
南アルプス北岳の登頂は無理でも、頂を近くに仰げるところくらいには行ってみたいと思わせる。日本第二の高峰でありながら、今ひとつ語られることの少ない北岳に誘われる描写が多い。丹念に現場をふみ、北岳にも登頂したのであろうと思わせる高村薫の語り口である。

『天空を裂くような一陣の強風が、最後のガスを吹き払ったときだった。東の空一杯に、正三角形の巨大な山影が浮かび上がってくる。雲海の上にはその山しかなく、その彼方にはまだ昇らない太陽の、かすかな来光の片鱗がかかっている。』《著書より引用》

レデイジョーカー」《上下巻約900頁》
この本を書いた時《1995〜1997》、高村薫は40代半ばであった。その高村が爺を自称する登場人物のひとり”物井”に、物語の終盤近くで述懐させている。
『彼岸に向かってゆるやかに流れている時間の川が、こうしてときどき何かの拍子に変調をきたし、とうの昔に観念したと思っている本人に、お前はほんとうに分かっているのかと念を押してくる。ゆるゆると蛇行しつつ流れていく老いの時間とはきっと、誰にとってもそうしたものであるに違いなかった。』《著書より引用》

若い頃ならば読み飛ばしてしまったであろう。こんな述懐がストンと腑に落ちる歳になったのだと、右眼に鈍い痛みを感じながら思い知らされている。宮部みゆき:弧宿の人は未だ手付かずである。

聖女の救済
登場人物も少ないことだし、冒頭から犯人は彼女だと思わせながら、彼女には鉄壁のアリバイがある。物語の筋はアリバイ崩しかと思いながら読み進めると、意外などんでん返しが待っている。”理論的には考えられるが、現実的にはありえないトリック。”  有り得ないことではないけれど有り得ない謎解きである。

窓外に来たるヒヨドリにはいささか飽きた。メジロやシジュウカラを待っているけれど、一向にやっては来ない。代わりにスズメが来た。今の季節は、福良雀《ふくらすずめ》である。

《2018/02/27 追記》寒の内は地中に置き留めて甘味を増した大根と人参を、花芽が出る前に掘り起こして切り干し大根と人参を作る。ザルに干した大根や人参をつまみ食いしてみれば、とても甘い。このままサラダやオヤツにできそうな甘さである。いよいよ三月、畑仕事を始める季節がやってくる。

 

 

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