葉月も晦日

八月も今日は末日である。気温は26度湿度は90%である(玄関の乾湿計にて、08/30 07:00)。空は蒼くウロコ雲は白く広がる。かすかな風は清か(さやか)に流れる。

雑木林の緑は色濃く木蔭の昏さも深い。法師蜩が鳴きコオロギの声も聞こえる。この季節の移ろいに心が泡立つのはいつものとおりである。春浅き頃にも初夏の頃にも冬の兆しが見える頃にも、瞼の裏がじんとするような泡立ちは感じない。

寒さ過ぎ行く頃、緑深まる頃、厳しい寒さに向かい身構える頃とは違って、来る季節を待つよりも過ぎ去る季節を惜しむせいか、それとも夏過ぎ秋来たりて移ろいゆく暦も残り少なくなったと思うせいか。

パソコンを起動して「鄙からの発信」を開き、新たな記事を入力するよりも、去年の今頃は何を書いていただろうかと、”過去記事一覧”より年月を選択してその月の記事一覧を眺めたり、記事末尾の”関連の記事”の中から古い記事を手繰ったりすることが増えたような気がする。

新しいことを始めるよりも古きを訪ねるを優先するようになったということであろう。新しい記事を書き始めたとしても、この記事のような身辺雑記や備忘書き憶えであり何の取り柄も無い繰り言ばなしばかりである。多少なりとも脳髄を絞るような記事は書かなくなった。

今年も2/3が過ぎゆき、残りは四ヶ月となった。昨夜はこの秋初物の秋刀魚をいただいた。近在のスーパーで家人が買い求めてきたもので、二尾で500円弱だったと聞く。身細く脂薄い秋刀魚であり、痛々しいほどの当歳魚だったが、老いた口にはアッサリとした味で手頃の大きさでもあった。

鱧も松茸も身の廻りから消えて久しく、煙あげる秋刀魚も消えようかという秋である。往く夏を惜しむほどの思いも無い秋である。来る日来る日を、今日を今日として生きてゆく秋である。

秋雨前線も南下して数日続いた雨空も今日は晴れである。野良着に着替えて、西江川の土手沿いに移植した雪柳と紫陽花を見回る。それから母屋裏と母屋前の庭の草取り、畑の除草と畝立てに秋冬物種蒔きの準備などなど、秋の農作業が始まる。今日を今日として野良に立つのである。

《追記 08/31 16:00》
晴れていればと云うよりも雨降りでなければ、朝食を済ませて、早ければ朝七時過ぎ、遅くとも九時頃までには野良に出る。畑(耕し、除草)や雑木林(枝打ち)や江川の土手(動力鎌草刈り)でタップリと汗をかき、昼前後午後一時頃には野良を上りシャワーを浴びてから軽い昼食を頂く、チーズトーストだったりザル素麺だったり、時には茹でトウモロコシあるいはトマト3個にアイスクリームと云う日もある。

風通しのよい部屋でウトウトと昼寝をして、目覚めれば夕刻と云う日もある。仄暗い部屋で覚めると、時間も場所も記憶が翔んでいる刻がある。翔ぶといってもほんの一瞬である。今何時だ、何日だ、俺は何をしていた。夢の続きに漂う感じである。朝は今日を今日とて生きると記したが、夕刻には今や仄かに漂う日々と自覚するのである。

秋雨前線は本日も活発である。午前中は晴れ時々曇りの天候だったが、午後からは曇り時々雨である。今も小雨が降っている。

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