美人投票のゆくえ

 鄙からの発信01.01.09「社会の視線」に対して、新しい投稿がござい
ました。ニヒリズムもちらちら見え隠れしますが、共感できる部分もご
ざいますので、茫猿流に推敲して掲載します。
よこしまな読み方をすれば、鑑定評価が地価高騰に対して無力であった
証明(言い訳)になりましょうか。でも「それを言っちゃー、オシメーヨ」
ということにもなるのでしょうか。
投稿引用開始 ———
 不動産の価格を話題とするに際して、不動産よりも株式の方がイメー
ジしやすいので、株の話からはじめます。不動産の証券化が始まりつつ
ありますから、総論的には株式をテーマとして語っても、大きな違いは
ないでしょう。
 株とは「企業が生産活動を行うにおいて不足する資本を、将来利潤を
還元する約束を行い、投資をしてもらう」ためのシステムです。
狭義の株式保有に対するリターンは「企業が資本を活用して利潤を得た
場合の配当金」ですが、現実的には「保有する株式の価値増加」こそが
リターンです。
・このあたりについては、末尾にファンダメンタリズムについて語って
・おります。
 資本財としての土地も株と同じく、「資本を活用して得られる利潤」、
「資本価値そのものの値上がり」の2種類のプロフィットが想定できる
わけですが、後者は少なくとも現状では「どバクチ」のマネーゲームに
しかなり得ない部分があります。
 いわゆる情報金融社会において、金(カネ)が記号化する流れの中で、
美人投票(自分が美人と思うかどうかではなく、みんなが美人と思うか
どうか)的な側面があるからです。その意味では資本価値というのも幻
想の記号であり、それが破滅的に狂奔したのがバブルだったといえるの
ではな いでしょうか。
 理論的には資本活用利潤総額の現在割引価値が資本そのものの価格に
近似するわけですが、そんな古き良き神話を信じている人がどこにいる
のでしょう?
素人目に見れば株であれ土地であれ、価格合理性を証明してくれる理屈
なんてどこに も存在していないし、最もらしく語られているのは「後
付けのたわごと 」のように感じます。
 資本価値形成論の合理性がない以上、専門家はどのようにして「値決
め」を行うべきなのか。なぜ、専門家は「今ある理屈」を現状に当ては
めることにばかり汲々として、新しい理屈(DCFとか、しょーもない
デューデリとかを新しい理屈とはいえませんぜ、旦那)を探すことをし
ないのでしょうか。
 逆に、「もう金融資本主義社会では、値段とは幻想にしか過ぎないん
だよーん」と喝破しちゃってもいいと思うのですが。
僕が経済学より哲学が好きなのは、実は哲学の方がラディカルにこのあ
たりの矛盾を言い当てているように思うからです。
次いで「ファンダメンタリズム小考」
 実需の数十倍、あるいはそれ以上の資金が文字どおりボーダレスに動
く株式市場、及び為替市場をはじめとする金融市場は、もっとも現状を
センシティブに投影している場の一つであるのは間違いない。
 以下はそれに対する私の考察であるが、正統的なファンダメンタリズ
ムとは異なる結論です。
 最終的な考察から先に述べると、
 「今日の株式及び為替市場は、ファンダメンタルズとはあまり関係の
ない「人々の思惑」で左右される」ということです。
 数年前、やたらファンダメンタルズという言葉が市場関係者の間でも
てはやされた。当たり前の話なのだが、各企業の、あるいは各国の基礎
的経済力及び諸要素の良し悪しに従って、株価ないしは為替レートは決
定される、という理屈である。
基本的には過去から現在まで、市場での株価はファンダメンタルズで決
定されるということになっている。しかしながら、これは現実の株価形
成主要因としては、かなり脆弱な根拠である。
 なぜそうなのか、そして真の理由はどこにあるのか。それを(特に日
本について)考えてみることにする。
 「企業のおかれた諸条件・保持する諸要素(=ファンダメンタルズ)
が株価に直接的な 影響を及ぼす」という理論が成立するためには、企
業がそのファンダメンタルズから得られた利益を株主に還元できるシス
テムが作動していることが前提となる。
 株主が企業から得られる利益とは、・株式配当・株式分割による割り
増し(用語を忘れました。1株が1.5株になるというやつです)・株主優
遇措置くらいのものであるが、これらの利益を主眼とした資金運用とし
ての株式は、他の金融商品と比べ、投資としての魅力を失っているのが
現実である。特に日本ではそれが強い。つまり、「相対的に見て」株式
保有は「投資」家にとって有利な資金運用策ではない、ということにな
る。
 ではなぜ人は株式を購入するのか。
 それはただ一つ、
 「株価の上昇による、株式売却益を得るため」である。
具体的にいえば、数%の株式配当ではなく、100円の株価が150円になる
ことによる資産価値の増大を狙っているのである。
現実を知る者にとっては当たり前の話だ。つまり、株式市場は「投資か
ら予想屋的投機の場」になってしまっているのだ。
 ファンダメンタルズが株式に直接影響するのは、株式が投資の対象で
あるときにのみ存在する。ファンダメンタルズの向上による利益還元は、
株式配当を始めとする「投資の」 果実であるからである。
 さて、「株価の上昇(あるいは下落)」による、「投機」としての株
式は、ケインズの「美人投票の理論」でその株価が左右される。
「美人投票の理論」とは、
「自分が美人と思う女性ではなく、みんなが美人だと思う女性に投票す
る」という理屈である。
 つまり、人々が「株価が上がりそうだ(=みんな買いそうだ)」 と
思う株式の値が上昇するのである。ここにおいて、株価形成の最大の要
因は、一般的理論で説明されるファンダメンタルズではなく、「ひとび
との思惑」である。ファンダメンタルズは人々の思考を左右する間接的
要因でしかない。
 そして「思惑」が最大要因である以上、株価形成は非常にあいまいな、
「雰囲気」 に依りかかる部分が大きくなる。これが、株価と実体経済
との乖離の主要因ではないか。
 最近ではエコノミストまでもが「理屈では説明できない」非合理的部
分があると公式の場で発言するまでになっている。
先頃の世界同時株安も「伝染」という言葉で説明されている。
 最早株式市場は理論だけで合理的に説明できる場ではないのである。
おまけに経済のボーダレス化、および地球規模での社会の均質化が進む
に連れて、把握不可能な人数の意志が反映される場所にもなってしまっ
た。対処療法以外に、現実に立ち向かう術はここにはない。
 以上である。個人的には、市場は原則的に「レッセ・フェール(自由
放任)」でいいと思うのだが。ただ、それに伴う数々の問題が出てきて
いるので、最近はそれをどう政策的に解決できるのかということを、今
までとは枠組みの異なるマクロ経済政策として考えねばなるまい。
 その政策的解決の目的をつきつめれば、
 「株式は投機ではなく投資である」
 「市場はファンダメンタルズによって振幅すべきである」
 ということになるのであろうが、それは一種の管理経済であり、
 議論は分かれると思われる。
いつもの蛇足です ———
解説はよそうと思いますが。
正常価格論につながるザインかゾーレンかという議論にも敷衍できます。
もっといえば、いわゆるところの専門家の狭い枠のなかでの思考形態に
囚われるか、広く社会人として、人生観に立つ思考形態を選択するかと
云ったところまで及びそうで、茫猿には些か怖い。

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