カオサン・ストリートのメタファー

【只管打座・・カオサン・ストリートのメタファー・・02.10.01】
 今回は、近況を報せる読者からの Email 転載です。
「久しぶりにタイランドへの独り旅」
 はじめの1日、乗り物の中でも、遺跡をたゆたうように歩いても、田舎町の屋
台で僕の大好きなビーフンを拙い片言のタイ語で何とか注文して味わえども、僕
の体は常に違和感を訴え続けていた。
 理由はすぐにわかる。湿った空気の中でそよぎ流れる風のリズムに、僕の精神
は抗体拒絶を起こしかけていた。たった数年で、僕は亜細亜に流れる風のスピー
ドに違和感を感じるくらい、ちょっと遠くに来てしまっている。
 日頃の営みは狂時計の中で繰り返される戯画演劇の1シーンだったことに、僕
はタイに来るまで気づくこともなかった。それでいながら、僕は日本の毎日でさ
らなるスピードを求めていたのだ。
 ねっとりと舌にからみつくジューシーなパパイヤを味わいながら、僕はそれに
気づく。そして知らぬ間に、体内時計が、脈拍が、ゆっくりと風にシンクロして
いく。出がけに空港で買った時計だけはいつもと変わらない秒針を刻んでいるは
ずだけれども、文字盤も心なしか優しげに見える。
 僕の時間は狂ってしまっている。
日本では誰しもがそうなのかもしれない。豊かさの代償には相対的時間を売り払
わねばならないのかもしれない。しかし誰がどうであれ誰が何を言おうとも、僕
の時間がいささか損なわれつつあるのは、少々圧倒的な、僕にとっての実感だ。
 ・・・・・・僕は自分を損ないたくはないのだと、ささやかに思う。
たぶんそんな感覚を無意識のうちに求めて、僕は亜細亜に流れてくる。
椰子の実のように。もちろん、すぐに家路につく、ゴム紐つきの椰子の実なのだ
けれども。それでもこの7年で、5回もタイに訪れた計算になる。
タイに着けば必ず足を向けるのが、外国人向けの安宿街として知られる「カオサ
ン・ストリート」。それは初めてこの国を訪れた十九の時だって今だって変わら
ない。
 しかし、カオサン・ストリートもずいぶんと変わったものだ。
小奇麗なカフェが小路に軒を連ね、小洒落たクラブが出来て、かなり高級なホテ
ルがオープンして、本当に六本木みたいだ。
 おまけにそこは僕ら外国人が小汚い格好でうろうろするだけではなく、おしゃ
れなタイ人たちが集うホット・スポットと化している。昔からそうだと言えばそ
うだったのだろうけれど、加速して僕の知らないカオサンになっていく。
 加速させた一因のほんのちょっぴりは、もちろんこの僕にもあるんだろうけれ
ど、身勝手なもので、悲しい。7年間通い続けた、青春のメタファーとしてのこ
の街が、既に終わりのベルを鳴らしているのを感じながら、僕はぼんやりと人と
車の流れを眺めていた。
※茫猿(注)
・「カオサン・ストリート」、世界中のバックパッカーが集まるので有名な地区
  http://homepage.mac.com/khaosan/khaosan/k_top.html
・「メタファー」、隠喩のことで、「~見立ててる」ということ
・人間の概念体系が本質的にメタファーである
  http://www5b.biglobe.ne.jp/~nitti/hp/cognitive/cognitive7.html
  http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/metapher94.html
 バンコクから列車で一時間くらい、ナコーンパトムという町にあるタイ最大の
仏塔を見物に出かける。そういえば、ここも7年前に訪れたことがある。
記憶はおぼろげだったけれど、何とはなしに街の雰囲気は思い出す。
 仏塔にふさわしい、大きな仏さまを拝んで境内を散歩している途中、急に胸が
締め付けられ、息苦しくなる。これはメタファーでなく、本当に実際的に、僕の
胸が痛むのだ。ありきたりにいえばこれこそ、切なさという感情、だと思う。
旅という異質性の中で、メタファーとしても実際性としても、僕は喪失し続ける
何ものかを探そうとしていた。
あまりにも漠然として、同時に必然性のない、おぼろげな行為。
だけれども僕は、何ものよりもその何ものかを求めている。
・主観的に健全でありたい。
時間が歪んだダリの絵のような日常は、まっとうな健全さでは少なくとも、無い。
願わくば、僕は健全な時間が流れる毎日の中で生きてみたい。
他の全てより、自由を愛していたい。
 再び旅、それも生活と錯覚するほどの長い旅に出る日が来ることを祈りながら、
僕はバンコク最後の夜、メナムの流れに向かって、乾杯することにした。
・・・・・・いつもの蛇足です・・・・・・・・・
 この投稿そのものが、茫猿が失いつつある熱い時期のメタファーに思います。
 基準改訂研修が始まっています。改訂について『鄙からの発信』に書こうと思
いながら、何も書けません。某誌から寄稿依頼もありましたが、結局のところ原
稿がまとまりませんでした。ある種の違和感を抱えながら、基準改訂を消化しよ
うとしています。消化して排泄が終わったら、何かを書こうと思っています。
 排泄と云えば「ウンコに学べ」という本を興味深く読みました。
いずれ近いうちに、紹介します。
・・・・・・・本稿終わり・・・・・・・

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