夏の夜の夢

 昨夜というか今朝はとうとう5時過ぎまで起きていた。
ヒョイと覗いたBSの女子マラソン中継から眼が離せなくなったのである。野口・土佐・坂本が先頭集団の好位置をキープしているあたりから見始めたのであるが、その内に野口がスパートし、36キロ地点で世界記録保持者ラドクリフがリタイアして、野口の独走になったものの、十秒~十数秒後をぴったりとヌデレバが追走してくる。
 どう考えたって力に大きな差がなければ、追う者が有利である。


 残り数キロになって、メダルは確実になってきたが、ゴール前トラック勝負になりそうな気がしてならなかった。ヌデレバとの差は14秒から10秒になった。
表情を変えないと云うかサングラスの下の表情が窺えないヌレデバに対して、野口にはさすがに疲れが見える。野口がんばれ、野口がんばれと言いながらゴールまで見てしまったという訳である。ゴール後の野口はとても苦しそうで精も根も尽き果てたという感じだった。
 おめでとう野口さん。小さな巨人の野口さん、おめでとう。
 このところ、日本金メダルラッシュのアテネ五輪を毎夜見ている。
でもふと思うと、TV商業ジャーナリズムに骨がらみにされて寝苦しい夜を過ごしているだけのようである。日本人選手の活躍は凄いし、称えるに称えすぎると云うことはないであろう。でもメダルラッシュを無邪気に興奮しているだけでよいのであろうか。
 NHKも民放も明けても暮れても五輪、五輪、メダル、メダルである。
天の邪鬼といわれようとも、背後に見え隠れする商業主義を意識せざるを得ない。アマチュア主義のスポーツ祭典は、今やマスメディアとサポート企業が暗躍する商業利権競争の場となってしまっていることを忘れてはならないと思う。
 野球競技も長島ジャパン(読売新聞)と甲子園野球(朝日新聞)が暗闘しているのが真実なのではなかろうか。足元のプロ野球が合併やら一リーグ化やらで揺れているなかで病床の長島監督をはずせない長島ジャパン、国内野球留学生で固めたチームが酷暑の炎天下で雌雄を競う甲子園。
なにもかもが、変わってしまった。こういうものであったのだろうかと、改めて自らに問い直すうちに、白々と明け初めた今朝でした。
 知り合いのBlogにこんな記事が掲載されていました。

 妻を、子を、親を置いて死にゆく若き指揮官たちは、たぶん今の私より若く、どのような気持ちで片道飛行の戦闘機に乗り込んだのか。
その思いは知る術もないけれど。
 昔、特攻の基地となった知覧の町に行ったことがあり、そのときも自分と齢の変わらぬ少年飛行兵たちの遺書を見ながら、胸に刺さり迫るものがあったことを思い出す。で、そこらのジジイや小林よしのりかぶれもおんなじ思いに熱くなって、国を守るための大義とか言い出すんでしょうね。冗談じゃないや。
戦争とも呼べぬ愚かな行為の中で死んでいった人たちの思いは、決して同じ過ちを繰り返すなという叫びだったと、僕は信じたい。

『城山三郎氏の「指揮官達の特攻」という本の読後感でしょう。』 
 私は特攻で散華していった若者達の真実の想いは「過ちを繰り返してほしくない」と受け止めても間違いではなかろうと考えます。だが、彼等の真実は彼等しか判らないと云う前提付きで云えば。
 彼等はやはり愛する父や母や兄弟や妻や子供や恋人の安寧を願って、それら愛する人々の暮らす故郷の安寧と平和を願って、一身を犠牲にしたのだろうと思います。
 人は国家や国体などという訳の判らないものの為に死ねるものでなく、まして当時にあの戦争の全てを理解していたわけでもなかろうと思います。
具体的な愛する誰かのためにこそ、死ねたのであろうと思います。
 だから、そういった彼等の願いを無にすることなく、残った者達が、身近な誰かを二度と戦場に死なせることがないように、安寧な世の中を実現することが、彼等の死を賭した願いに応えることであろうと思います。
 先の五輪との関係で云えば、某日、某TVで政治評論家と称する禿頭氏がこうほざいていた。「この頃の選手はオリンピックを楽しんでくるとコメントするが、とんでもないことだ。國を代表し、国費を費消して出場する以上、國の名誉のため頑張ると言うべきだ。楽しむなどとふざけている。」
 アナクロニズムも大概にせいと云いたい。彼はTV放送で直ぐ怒鳴るので有名であるが、何を勘違いしているのであろうか。某日はライブドアの堀江氏の服装にインネンを付けていた。「TVに出るときはネクタイを付けろ」というのである。
 彼のような、誤った精神主義や国威発揚主義が、どれだけ日本を駄目にしてきたことか。声高にニッポン、ニッポンと叫ぶ彼等老害が、リストラとサービス残業で企業収益を一見回復させ、年間の自殺者三万人を生み出していると云うことに何故気づかないのであろうか。
 五輪だって、国費国費というけど、国費など全体からすれば僅かなもので、多くは企業支援(商業主義)で成り立っていることに気づいていない訳はなかろうに。第一、国費で派遣されようと、楽しくリラックスして持てる力の全てを発揮してくればよいのであり、結果として五輪が国威発揚の場であろうとも、個々のアスリートは己の持てる力の全てを表現する場所であればよいのだから。
 スポーツに限らず、文化とか芸術とか基本的に個人または個人的集団に帰する人間の活動について、國とか国家とか民族といったものを持ち出すとろくなことがない。
すべからく、文化・芸術・スポーツに国境も人種もないのである。
いいえ、そういった雑念(あえて雑念と云う)を持ち込んではならないのである。

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