娘亜希子のこと

(初出:只管打座1999/03/10
 私には息子が二人いますが、息子たちが生まれる前にこの世に生をうけ、早々と親に先だって逝ってしまった娘が一人います。娘の俗名は「亜希子」といい、法名は「釈尼妙光」といいます。娘はこの世には、僅か2年数ヶ月しかおりませんでしたが、彼女の親となり彼女を送ったことは、それからの私の生き方というか処世に随分大きな影響を与え続けているように思います。


 実は、娘はダウン症という先天性の病気をもって生まれてきました。当時、27歳で鑑定士試験にも合格したばかりの私は、この世の春を謳歌するような気分でいました。ところが、乳幼児検診で精密検査を受けるように言われ、大学病院で精密検査を受けるまでもなく、両親揃って告知を受けることとなり、医師の説明は「お子様はダウン症です」とのことでした。何がなにやら判らない私たち夫婦に先生は「お子様はあまり長生きできません。それから、ダウン症であることの苦しみは親のものであり、本人はそのようなことは感じませんから、可愛がってあげて下さい。」と言われました。それが、如何なる意味を持つのか当時は全く理解できませんでした。
 笑顔の可愛い亜希子を見ていますと、「この子より先には死ねないな。」と思うだけで、どこがダウン症なのか、親の欲目とはよく言ったもので、全く判りませんでした。しかし、普通の子供との違いが判らなかったのは、私達夫婦と家族だけであり、家族でない親族達は生まれた当初から違和感を感じていたようです。
 亜希子は最後まで一人で歩くことは出来ませんでしたが、ハイハイは上手でトコトコと部屋中を這い回るようになりました。春の陽気の良いときは、ドライブの好きな亜希子を連れて、長良川の河川敷にゴルフの練習に出かけますと、帰りに寄った喫茶店でアイスクリームを嬉しがり、机をたたいて催促した様子が今でも目に浮かびます。
 2歳半になった早春のある日、彼女は風邪をこじらせてしまい、入院しましたところ肺炎を併発し、結局一週間ほどの入院で還らぬ人となりました。「あれ程、抱っこが好きだったのに、抱っこされても酸素テントのベッドに戻りたがった亜希子の様子が今でも忘れられない。」と、妻から聞かされたのは、まだつい最近のことです。
 私にしても、安定した容態の亜希子に安心して、三泊四日の出張に出かけましたところ、四日目に事務所へ電話しましたら病院へ連絡するようにとの伝言がありました。病院へ行きましたらベッドはもぬけの空であり、てっきり退院したものと勘違いして、ナースセンターの看護婦さんに退院のお礼を申し上げたら、「実はお亡くなりになりました。」告げられました。あまりにも突然であり、茫然としながらもお世話になったお礼を申し上げて帰宅しようとしたのですが、何故かわかりませんが、治療費の支払いがどうなったかが気になって、会計に参りますと未だとのこと。お幾らですかと尋ねますと、当時のさほど懐中豊かでない、しかも出張帰りの財布でも払える金額でした。
 笑顔ばかりを残して、親にどれ程の負担もかけずに死んでいってしまった亜希子は、口惜しいけれど実に親孝行な娘でした。二十年も過ぎて、その後生まれた息子達が成人するようになりますと、「親孝行というのは、乳幼児の頃にこぼれるばかりの笑顔を親に与えてくれることを言うのではないかと。」しみじみ思います。子供には子供の人生があり、せめて成人するまでは親の責務があるのでしょうが。成人すれば彼等の人生であり、親は相談を持ちかけられればそれなりの助言は致しますが、「全ては自分の責任なのだ。指図などしない。」と彼等には伝えています。そして、彼等も又、幼児の頃に数え切れないほどの笑顔を私達にくれたことだと、思い出すのです。


※ダウン‐しょうこうぐん【—症候群】(広辞苑より)
 先天性染色体異常症の一種。イギリスの内科医ダウンがはじめて記載。ヒトの21番染色体の過剰によって起きる発達・成長の障害で、先天性心疾患を伴うことが多い。かつて蒙古症と呼ばれた。
 ダウン症の子供達の知能は個人差はあるが、概して著しく低く虚弱である場合が多い。しかし、性格は穏やかで、愛情が豊かである。
 亜希子も笑顔がとても可愛い、いつもニコニコしている子供でした。

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