先日、年長かつ年来の友人との酒席があった。 その席で彼が、「お前はお袋さんが好きだったんだなぁ。息子の母親好きは相場だが、それにしても親爺さんのことは出てこないな。」と言います。彼は私の両親共に知っていますし、この『鄙からの発信』サイトにも時折立ち寄っているようです。だから、母に関わる記事に較べて父は登場しないことを指して言ったのでしょう。 息子の母親好きが相場かどうかは知りませんが、生前の母と私はそれほどに仲むつまじかった訳ではありません。軋轢があったといった方がよいでしょう。
でも、もう母はいません。 いなくなれば軋轢の種は無くなってしまい、佳い思い出だけが残されています。 よく「母の介護は大変だっただろう。」とか、「よくぞ自宅で看取ってあげた、佳かった。」などと言われます。 しかし、今思い出しても母の介護はそんなに大事(おおごと)ではありませんでした。
細くなった食事の世話、トイレの介護、点滴通院の送迎、そんなものです。何より先が見えていました。 床につくようになったのが三月初め、医者にも言われていましたが夏を越すのは難しかろうと思っていましたから、長くて半年と見えていたのです。
それに加えて、訪問介護、訪問看護、そして医師の往診とたくさん助けて頂きました。連休には息子達も助けてくれましたから、今に較べれば肉体的にはともかく、気持ちの上では楽だったと振り返ります。 毎日、専門家が訪ねてきていただくということは、とても気持ちを楽にし負担を軽くしてくれます。
思い出してみれば、毎日々々プロの方に様子を尋ねられ、教えられ、慰められ、激励されていたのです。 毎日こちらが介護者ケアを受けていたようなものです。見舞客も多かったし、細々ながら仕事も続けていました。
今は母に先立たれた親爺の日常を独りで介護しています。仕事も止めましたし、訪れる客どころか郵便も宅配便も少なくなり、閑かで長閑な日々です。 永劫に今の生活が続くわけではないでしょうが、結末が見えているというものでもありません。 先日も少しばかり小言を親爺に言いましたら、「お前にはわからんだろうが、俺だって精一杯やっている。」、「もうそんなに長いことでもない。」と言い返されました。 確かに母亡き後の親爺は少しでも自分のことは自分でという気持ちと行動がかいま見えます。 ですが、百歳近い高齢者が連れ合いに頼りきりの生活から、今までやったことも無いことを行おうとするのが無理というもので、長年の生活のリズムを変えるのは負担の多いことですし、気持ちと裏腹な結果を招くことが多いのです。 それは同時に私の後始末的仕事を増やします。
そんな日常は書けません。書けば愚痴になります。 母の介護日記は残してあるものの記事にはしていません。母亡き後のことも記事にしています、いつか記事にすることもあるのかもしれませんが、今ではないと考えています。 父との日常は書けないこと、いいえ書きたくないことの方が多いのです。 実は父の介護日記も時おり記していますが、これも公開するものではありません。
いつの日か、父母の介護日記を記事にする時があるのかもしれませんが、今は違うと思っています、だから父のことにふれた記事が少ないのです。 それに父を看ていますと、「我もいつか行く道、いつかどころか近々行く道」とこそ思えば、とてもよそ事ではないのです。
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