飽食と食品偽装

昨日の投稿「牛ミンチ偽装」で、事件の顛末を「飽食日本のおぞましい食生活のなれの果て」と表現した。この表現は些かの誤解を招いたようなので補足する。


 すなわち、「偽装牛ミンチ=貧しい大量生産ファーストフード等」は心貧しい一企業の愚かな犯罪であり、「飽食日本=豊かな食生活」とはつながらないと云うのである。本当につながらないのだろうか、茫猿はそうは思わない。金に糸目を付けず世界中から高級食材かきあつめ飽食し粗末に扱う食生活(表現を変えれば、世界の食糧生産の厳しい現場とか現地食料事情に思いを致すことのない食生活)と、食材工場で大量生産されるファーストフードで食事とも餌ともつかない食生活とは、一見似て非なるように見えて実は同根なのでなかろうか。
 目の前の食事以外何も目に入らず、その背景とか経緯とか事情と云ったものに考えを及ぼさないという点では同根なのである。そこには一回の食事に数百円しか掛けられないのか、数万円も費消できるかの違いしかないのである。その人の食事を設定するのはその人自身の収入の多寡だけであるというお寒い事情は全く同じなのである。
 「食は人なり」とは、食事マナーとか作法とか食の好みとか偏りとか高価とか廉価などと云うことではない。否応なしに好むと好まざるとに関わらず食物連鎖の頂点に立たざるを得なくなった人間というもの、肉食は云うに及ばず菜食者であっても生命あるものの生命を断つことにより己が生命を永らえさせているという、食物連鎖の厳粛さをせめて折々に思い浮かべているか否かが問われていると考えるのである。
 豪華さだけを追い求める食事が心貧しいものであると同様に、食事というものが当座の空腹を満たすだけのものであってよいはずがないのであり、食が人の生き方の根幹を規定するものになるという処から我々は再スタートすべきなのであろう。だから、マクドナルド化社会というものを、もう一度考えてみたいのである。
 【マクドナルド化】
 【マクドナルド化 畜産
 だからといって、ミートホープ社が免罪される訳ではない。報道のとおりであれば同社の犯罪は許されるものではなく、即刻市場から退場させるべきであろう。同社の犯罪を作為不作為にかかわらず見逃したり見過ごした取引先も相応の責を負うべきであろう。その上で、同社のような鬼っ子を生み出した我々の食生活事情というものを見直すべきであろうと云うのである。
 社保庁5千万件データ不明事件、コムスン介護保険喰い物事件、食肉偽装事件といった一連の問題で改めて痛感させられるのは、日本には産業・企業を助成・育成・監督する役所は存在するが、消費者・市民を助成し育成し保護する役所が殆ど存在しないと云うことである。参議院選挙も近いのである。我々市民の目線を持つ候補者を選ばなければならない。メガネに叶う候補者がいなくとも次善の選択をしなければならない。ネガティブリストが行使できない以上、棄権は自らの為にならないのである。最善など得られべくもないがせめて次善、次々善を選択するという姿勢を忘れないでいたい。

 『憲法は国民を規制するものではない。時の為政者の権力行使を戒めるものである。だから、権力者が憲法を変えたいと発議する時は要注意なのである。』

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