言葉の軽さ

 政治家達が語る言葉の軽さがとても目立つのである。最高学府等で相応の教育を受け、その後も錬磨を怠らない方々と思えるに、語る言葉が軽いのである。国会は「言論の府」と称されるのである。政治家は言葉をもって政策や理念を主張し賛意を得て政治を動かしてゆくのである。政治家にとって最大の武器であるべき「ことば」が重みに欠けるのである。


 言葉が重みに欠けるのは、語る人々が理念や哲学に欠けるからであり、自らの職責の重さを自覚することに欠けるからであろう。
「安倍首相の問題発言」
 松岡農水相が亡くなった時に総理はこう語った。
「ご本人の名誉のために申し上げておくが、『緑資源機構』に関して捜査当局が松岡農水相や関係者の取り調べを行っていたという事実もないし、これから取り調べを行う予定もないという発言があったと聞いている」
 この発言は、総理大臣による指揮権発動とも受け取られかねない発言であり前代未聞と云ってよかろう。
 松岡農水相の自殺について、総理は記者団に「慚愧(ざんき)にたえない」と繰り返した。慚愧とは「恥じいること」という意味であり、大臣の自殺を聞いて使う言葉とは思えない。不用意にうろ覚えの漢語を使って失敗した例だろう。「惜しい方を亡くしました。とても残念です。」とでも云っておけば揚げ足を取られずにすんだのに。
安倍総理が久間発言を擁護、「被爆地長崎の考え方も披歴」
 総理は遊説先の香川県丸亀市で記者会見し、久間防衛相の原爆投下に関する発言について、「詳しいことは聞いていないが、米国の考え方を紹介すると同時に、原爆の惨禍にあった長崎について自分としては忸怩(じくじ)たるものがあるという被爆地としての考え方も披歴されたと聞いている」と述べた。
 この「忸怩たるものがある」は、「自分のおこないについて、心のうちで恥じ入るさま。」を云うのである。ご自身の日本語について教育改革が必要なようである。
「松岡利勝前農水相(2007年5月28日自殺)」
 記者団から説明を求められ、「事務所で水道水を飲んでいるのか?」という記者の問いに、「今、水道水を飲んでいる人はほとんどいないんじゃないですか」と発言した。大臣自身は高価な「何とか還元水」を常用しているとしても、多くの庶民は水道を飲んでいる。第一、旨い水を供給しようと努力している水道事業に携わっている人々に対してとても失礼な話だろう。
「伊吹文部大臣は松岡農水相に死亡を聞いて、こう語った。」
「緑資源機構のことで責任を感じたのか~
これで死人に口無しっていう残念なことになっちゃったけども」と
サラッと言い放った・・・
 この発言をTVで聞き、画面の伊吹氏の「シレッとした」顔を見た時に、何故か背筋が冷たくなった記憶がある。昨日まで席を並べていた同僚閣僚の死について「死人に口無し」と語れる冷酷さ、或いはモノ知らずさに呆れた。
「柳沢厚生労働大臣2007年01月28日」
 柳沢伯夫厚生労働相(71)は27日、松江市で開かれた自民県議の決起集会で、少子化問題について「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と説明した。
「久間章生防衛相2007年06月30日」(07/07/03辞任)
 久間防衛相(衆院長崎2区)は30日、麗沢大学で講演し、1945年8月に米軍が日本に原爆を投下したことについて「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べた。
 ざっと拾い上げただけでもこの程度である。あるはでるはといった感じである。それなりの資質を持ち素養を深めている方々であろうと思うに、なぜこんなに言葉が軽いのだろう。政治家生活の日頃とは、こんな軽い言葉遊びの日々なのだろうか。それとも、これらの発言は失言とか誤用といった類ではなく、本音なのだろうか。彼らの経歴を見ればみるほど、「どうやら本音を語っているのだ。」と考えた方がよさそうだ。 本音を時々に漏らして、静かに秘やかにガス抜きを行っているのだろうか。
 このことに関連して思い出すことがある。最近、茫猿はある資料をさる組織に開示したのである。それをみて茫猿より年回りが一回り半、後輩の某氏が「叩き台にします。」と宣わった。茫猿唖然である。叩き台とは自らが提出した資料とか原稿を謙遜して「叩き台として使用して下さい。」と云うものであり、後輩が先輩提示資料について叩き台にしますとは云わないのが普通であると思っていた。でもまあ、彼我の力関係が変われば先輩起案の原稿でも叩き台になってしまうのであろう。時代は変わったのである。老兵は消え去るのみである。
 だから何を言いたいかといえば、「慚愧」ではないよ。「断腸の思い」とか「痛恨の極み」という言葉があるよ。「忸怩」ではないよ、「憤怒」だよと教える先輩が政界にもいなくなったというか、そういう風にして人を育てるならいが無くなったのではなかろうかと思う今日この頃である。『茫猿はどうするのと問われれば、この記事が某氏の目に留まることがあればと思うのである。』

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