茫猿と止揚学園

 止揚学園について新しい訪問記事をアップしたばかりなのに、続いて学園記事を掲載するのは少しだけ気が引けますが、大事なことと思いますから記事にします。


 茫猿と止揚学園とのお付き合いはもう二十年くらいになります。初めて訪問したのはいつなのか、詳しく憶えていませんが、そのあたりはお時間が許せば、『鄙からの発信』カテゴリー「止揚の人々」で検索してお読み下さい。本稿で茫猿が申し上げたいのは、茫猿にとってなぜ止揚学園なのかということです。
 社会福祉施設は「止揚学園」以外にも多く存在しますし、それら多くの福祉施設はそれぞれに大切なお仕事をなさっています。そのことは、とても大切だし有り難いことです。そんななかで、茫猿はなぜ止揚学園なのか、そして自分のささやかな、とてもささやかな支援を、これみよがしにブログ『鄙からの発信』に書きつづっているのかということを2007年歳末だからこそ述べてみたいのです。
 多くの施設は、止揚学園と同じように、その日々の運営に頭を痛めておられることでしょう。特に障害者自立支援法なるものが施行されて以来、福祉施設運営にもビジネス感覚が求められて、赤字とか黒字という概念が導入されて「余分なこと」に悩まされる日々が多いとも伺います。 茫猿のように、曲がりなりにも日々のたずき(生計)が事足りている者は、そういった施設運営に日々御苦労されている人たちをささやかでも支援することはとても大事なことと考えます。
 そのときに、茫猿の力はあまりにも非力です。支援申し上げたい施設は数多く、茫猿は微力です。どうすればよいのか、新聞社や放送局や赤十字の歳末募金に協力して、皆で分けて頂くのがよいのか、何処かに直接お届けして笑顔を分けて頂くのがよいのか、とても悩ましいところです。
 人の気持ちの表し方は、人それぞれであってよいと考えます。茫猿には茫猿流の表し方があり、読者の皆様おひとりお一人には、またそれぞれのお考えと方法があろうと思います。そこで、茫猿はこのように考えるのです。
 微力な茫猿だからこそ、支援募金や寄付は止揚学園と「あしなが育英会」に限ろう。そして、直接訪問したり、直接募金投函したり送付したりしよう。それぞれが、それぞれの支援先を得ればよい。日々の「たずき:生計」に事足りている多くの人たちが、それぞれの、できれば身近で直接的に接触できる先々と、ふれあえばよいのでなかろうかと考えます。
 多くの人たちが、自らがささやかながら支援する相手先を持つことが、幾つかの大きな効果ももたらすのではなかろうかとも考えます。福祉施設は老齢者対象であろうと、児童対象であろうと、成年者対象であろうと、社会との係わりを無くしてはならないと思います。社会とともに共生すること、共生しているという実感をえることが、施設にとっても支援する側にとっても大事なことと思うのです。施設と支援者が、互いが互いに共生しているという実感を得ることが、施設にとっても支援者にとっても大事なことと思うのです。いいえ、この実感は施設よりも支援する側にとってこそ大事だし必要なことと思います。
 だから、茫猿はできる限りの間は止揚学園を微力でも支援し続けます。そして、支える相手先を見付け得ないでいる人のために、あるいは最初の一歩を踏み出せないでいる人たちのために、茫猿は「止揚の人々」というカテゴリー記事を書き続けています。
『エエカッコシィー』とか、『臆面もなしに』とか、『見せびらかし』とか、『僅かばかりのことをエラソウニ』とか、ご批判は多かろうと承知します。支援とか布施といったものは、「サリゲナク」、「秘やかに」、「人知れず」行うものであろうと云うことも重々承知しています。それが古来の美徳であろうということも承知しています。でも、茫猿の乏しい経験からしても「最初の一歩」を踏み出すに躊躇する方達も少なくありません。機会を得たいと、誰かが背中を押してくれるのを待っている人も少なくないのです。
 だから、茫猿は茫猿流の遣り方もあるのだと、一つの例として、臆面もなく恥ずかしくもなく、学園関連記事を掲載しているのです。そして願わくば、これらの記事に誘われて支援の一歩を踏み出す方が、ひとりでも現れてくれればよい。それで十分だと思い続けています。「これみよがしに」と受け止められる読者もおられるでしょうが、それはそれでやむを得ないこと、仕方がないことと思います。そんな方こそ、茫猿独りに「エエカッコ」させてなるものか、私だってそれくらいならできると、考えてもらえれば、茫猿は満足なのです。
 福井達雨先生も、こんな風に仰有っておられます。「支援というのはお金や物だけではありません。折々に止揚学園を訪ねて頂き、園生達とふれあっていただくことが大事です。私たちが身の回りの社会から孤立していない、共生しているという実感を得ることが、大きな力になります。」
 うろ憶えですから、先生の言葉を正確に伝えていないかもしれませんが、おおよその趣旨はこんなだったと記憶します。
 誤解をおそれずに申し上げれば、「お金を送ってこと足れり」も、送らないよりはよいでしょう。遙かに佳いことです。でも折角ならば、顔を出して互いの笑顔を交換すれば、もっともっと互いが、いいえ、支援する側こそが幸せになれると信じます。だから、茫猿は生意気にもカテゴリー「止揚の人々」記事を、来年も掲載し続けようと思うのです。

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