林業、山をどうするか

 和歌山の不動産鑑定士・名手孝和氏が氏の主宰サイトに「林業、山をどうするか (2007/12/23)」 というエントリーを掲載している。


 紀州と同じ山国である岐阜に居住する鄙の堂守としては、見逃せない記事である。名手氏は次のように記事の箇条をたてているのである。
1.客観状況をまず共有する
2.選択をどうするのか
3.もうひとつわからないこと
4.新自由主義の見地から
5.解決策は特になく市場は厳しい

『名手氏は斯様に論じている。(抜粋)』
 産業として見た林業は、はっきり言って既に破綻している。つまり補助金なしには維持できない。債務の返済の目途などない経営体が多い、いや大部分だろう。
 公社の素材生産を目的とした事業が行きづまりだとわかった今、自治体へしわ寄せが懸念されている。で、公社や自治体は一部債務免除なら、森林組合はどうするのか、また林業を営む民間の個人、法人はどうするつもりなのか。
 林業経営体は木を伐らないと維持できない。もし国有林、公社、森林組合も組織替えして大幅縮小し、治山治水目的対応にしてしまうと、林業従事者の大部分を他産業へ移動させなければならない。経済学的にはそれで国民経済の生産性は上昇するだろうが、過疎地域は集団移住を迫られるだろう。
 個々の経済主体が自らの生き残りのために合理化をする動きと、すぐにはなくならない統制的行政がどう動いていくのか、世界の資源状況、環境対策等の影響がどう作用するのか、相まって決まっていくものと思われる。一経営体としては、自らの利益にのっとって最善を尽くすだけである。

 山林の荒廃は岐阜県でも目を覆うばかりである。戦後から昭和40年代にかけて一斉に造林された山が、その後の高度成長による山村の過疎化と、輸入自由化による木材価格の低落により、管理が放棄されて除伐も間伐も行われなくなって久しいのである。遠目には濃い緑の山に見えても、山林のなかに入れば密植状態のままに放置されたことから、モヤシのような立木が密生し昼なお暗く下草も生えないことから表土が流失している。針葉樹林であることから花も木の実もないから、鳥の声も聞こえてこない。いわば安楽死を待つような山なのである。
 でも、それだけならまだよいのである。それだけなら百年二百年後には、そんな山でも自然淘汰が起きるだろうから、長い時間をかけて優良天然林に変化してゆくであろう。しかし、実はそのようなモヤシ山は災害の大きな原因となるのである。モヤシ山で根張りが不十分だから台風や長雨にあえば立木と斜面が一緒に崩壊するのである。いわゆる山抜けである。そうなれば土石流災害を引き起こすし、崩壊した立木は各所で堆積して二次災害を招くのである。この数年のあいだに各地で起きている中小河川の氾濫はこの山抜けに原因することも多いと聞くのである。
 言い古されていながら一向に実現しないのが、コンクリートの砂防ダム行政から緑のダム行政への転換ということである。田中元長野県知事もそのような趣旨から「脱ダム宣言」を発して、ダム行政の転換を図ろうとしたが、様々な事情から頓挫してしまった。
 個人所有の山へ行政資金を直接的に投下することに多くの支障が存在することは承知しているが、もう少し大きな見地、災害防止、国土保全、広い意味での国富増殖といった観点から、民有林の管理に行政が乗り出せないものだろうか。そこには「80年間の禁伐」とか、「伐採は択伐限定」とか、「伐採収入の相当分課税」といった幾つかの行政資金投下方策が考えられないだろうかと思うのである。管理された美しい山林は、水と酸素を生み出す国民の共有財産であるという、国民的合意が形成されないものだろうかと思うのである。

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