未曾有、百年に一度

 「百年に一度の危機」とか「未曾有の金融危機」といった言葉がTV、新聞に溢れている。 国会論戦でも総理をはじめ野党の質問者も枕詞のように言い指している。 でも、よくよく考えてみれば前回の世界恐慌は1929年(昭和4年)のことである。 その時に生まれた人は今79歳である。青壮年期で体験した人ならば、殆どこの世にはいまい。 何よりも当時の日本の主力輸出品はお茶と生糸であり、世界は金本位制とブロック経済体制のなかにあった。 


 何もかもが、今と違うのである。曰く「時代が違う。」といってよかろう。 MIFも世銀もないし、G8もインターネットもない時代である。 様々な背景の違いを無視して、いたずらに「百年に一度の危機」などと騒ぐのは如何なものだろうと思うのである。 経済の糊代が違うし、学習効果も違うし、共存共栄意識も違うのである。 米国が倒れれば中国だって無傷ではいられないというリンクされた経済社会の中に世界は生きているのである。
 危機意識を正しく共有することは大事だし、必要なことであろうが、やたらと危機意識を煽り立てるのは疑問というよりも問題であろう。 必要以上に楽観主義に陥ることは避けなければならないにしても不必要に悲観主義に陥るのはもっと悪いと考える。 久しぶりの深さをもったリセッションであろう位は鄙の堂守でも判っている。 であればこそ、政治家やマスコミやオピニオンリーダーは力強いメッセージが求められるのであり、自らの国民を信じる哲学に裏打ちされたメッセージが今こそ求められると考える。
 額に深く刻まれた横皺三本を苛つかせて貧乏神のごとく答弁する宰相をTV画面で見ていると、二ヶ月前の満面の笑みは何処へ消えたのであろうかと不思議である。 こんな時こそ、明るさと笑みと力強さが期待された宰相ではなかったのかと思えてならない。 空元気は困るし、根拠のない楽観論も願い下げであるが、どうせなら『国民一人一人に洩れなく一万円を配布しますから、年内に何でもいいから使い切ってください。 余裕のある方は、歳末助け合いに寄付して下さい。 それが日本の年越しを明るくします。』くらいのことは云えないだろうかと思う。
 未曾有というのであれば、未曾有の破天荒な施策を打ち出せばよいのである。 それが国民を明るくし、明日に希望をつなぐこととなると思う。 苦境を前にして横皺を深くするだけでは、ますます貧相になるだけであろう。 よくよく考えてみれば、今の経済危機は富裕層に厳しく、内部留保の厚い高成長輸出企業に厳しいのである。 であればこそ、それらの厳しさが中小企業や困窮層に可能な限り波及しないような施策が一番求められるのであろう。 その理解を彼に求めるのは八百屋で魚を求めるに等しいのであろうか。
 改めて考え直してみれば、昭和末期から平成初期にかけてバブル崩壊後の日本経済が目指すべき方向として、量的拡大から質的向上への転換、ナンバーワンからオンリーワンへと言われ続けてきたのである。 拝金主義から脱却すること、物質的豊かさを追うことから内面的心的豊かさを探求しようとも言われてきた。 21世紀は地球という箱船の限界が明らかになってきた世紀なのである。 地球上に棲息する動物として人間は『まさに未曾有の進化と量的拡大を果たしたのである。』 居住スペースの広さや車や新幹線や飛行機などの移動手段も含めて考えれば、かつて地球上に斯様に巨大な生物群が棲息した歴史は無いし、その進化速度の異常な速さも地球にとってみれば異様であり未曾有の事態であろう。 そういった意味から、地球に哺乳類が誕生して以来、一億年に一度といえるし、人類が誕生してから数万年に一度の事態と言えるわけである。
 年初来の経済環境悪化はクライシスともいえるリセッションであろうが、見方を変えれば「人類がその在り方を変える、千載一遇の好機」とも云えるのである。 弱者や生活困窮者への配慮は欠かしてならないが、日本という国の有り様、人類の生活観や人生観を大きく転換してゆく好機と捉えるべきであろう。 にもかかわらず旧態依然たる財政出動や公共事業ばらまきを主張するしか能のない政治家とも思えない人々の『選挙しか意識にない我が身かわいさ』が目に余るというよりも情けなく思えるのである。 国内の弱者や困窮者への目配り気配りは言うに及ばず、海外の貧困層への配慮も欠かしてはならないであろう。 そのような視点から日本の政治・経済・社会というものを考え直してみたいものである。

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