未来の森

以下は「未来の森」を読んだ後に、息子に送ったE.mailです。


未来の森を読ませて頂きました。中学卒業の頃に生じた産廃問題を肌身に感じて成長した石井氏は高校卒業後はしばらく島を離れていたのだが、帰島して青年団活動などを通じてこの問題に密接に関わり合うようになった。90年からはさらに深く関与し92年には公害調停申請代表人となり、さらに県政の世界に関わるようなって以後彼が見て聞いてきたものの多様さと大きさ深さがこの書籍からうかがわれます。
産廃についていえば、発端における県行政及び県議会の有り様、そして地元の誤謬、地元に関して誤謬というのは酷な話でしょう。後講釈では誤謬といえても現実には訳も判らず右往左往させられたというのが本当のところでなかったかと思います。(部外者が無責任な批評をすれば、それこそ石井氏が云うところの無責任な世論となるのでしょう。)
行政や議会の対応は岐阜市椿洞の産廃問題にも共通します。地元住民の意識に関わる問題は「長い物に巻かれろ的発想やオカミ意識」などが云えるのかもしれません。農山村で声を上げること、上げ続けることの困難さを思います。行政の無責任さと卑怯さと我が身かわいさは島も岐阜も同じのようです。幾つかの組織体に於いては、個々人の善良さと組織の無責任さ卑怯さは両立するのである。いいえ、善良な個々人の集合体であればあるほど、往々にして組織体は鵺のごとき存在になることがみられる。
『公害の被害者は三度殺される。一度目は加害企業により、二度目は行政に、三度目は無関心な世論によって。』
とても印象的な言葉です。加害企業は資本の論理を最優先することで脱法行為を行い、時に違法行為を行って、自社の利益極大化のみを求めます。それこそ【経済の豊かさ:Obsession with Economy】なのでしょう。 行政は、ヌエのような無責任主義、もたれ合いのくせに蛸壺主義で、たらい回し主義で公害被害者や社会的弱者を見殺しにします。
世論・・・・というものも、自主、自立、自尊、自存の人々の発言の集合体であればそれは世論でしょう。興論とも云えましょう。でも世間に横行しているのは、世慣れた功利主義や無責任無関心無感動な上に無知な付和雷同論でしかありません。

 石井氏はこのように云う。
『しかし私は、島という大きさですらすでに大きすぎるのだと考えている。アイデンティティーは「島」という単位ではなく、さらに小さな「地域」の単位に対して強く示される。お互いが顔や生い立ちを知っている関係が共同体の基本的な大きさなのかも知れない。』

『もともと県行政は住民生活から遠い存在だけれど、市町村も大きくなりすぎて、一人一人が主体として取り組むには複雑すぎる。そうすると地域や課題に
根ざして自治で協働する主体を取り戻さなければ、この世の中は上手く治まらない。昔に戻ることはできないが、新しい仕組みとして生み出すことはできる。』

印象に残る文章です。島に限らず運動の原点であり、社会というものの原
点なのではないでしょうか。先ず自らが変わる、身の回りを変える、地区を変
え村を変えてゆく。気の遠くなるような方法論ですが、でも急がば回れ的発想
としても正しいのではなかろうかと思います。
もう一つ云えば、「90人の味方と10人の敵」よりも「10人の味方と90人の敵」という発想とか覚悟を云われているようにも感じました。90人の敵という文言が不適切であれば、90人の傍観者と言い換えてもよいでしょう。
「変わらない、変わろうとしない国、日本」
「全編に石井氏の悲痛な叫びが聞こえてくるような気がします。」
「日本の資本は経済効率という、一見美名でその実、獰猛な
資本主義の本質をむき出しにして、故郷を過疎にし、
水や空気や耕地や森や若者を収奪し、
今や、産業廃棄物と原発と原発の廃棄物の墓場にしようとしている。」
国民や県民や市町村民は知らされていないのです。
ウルグァイラウンドの背後に存在した資本の獰猛さを、あの時から日本の山河はコンクリートに覆われ、日本の財政は国も地方も借金の山になったのです。
トヨタもキャノンもシャープもソニーも、日本で誕生したことは間違いないが今や日本企業とは云えなくなっているのでしょう。グローバル企業という、仮面の下で、利益の極大化という企業資本論理を追い求めた結果、国内でも派遣、請負等非正規雇用を増やし、結婚できない世代を増やし、少子化に拍車をかけて、結果日本の社会基礎構造を破壊に導いている。
企業の利益極大化、税収の回復増加、見かけ求人倍率の回復、働き方の多様性、挙げ句ホワイトカラーエグゼンプション、こういったものが【合成の誤謬】を招き、その最大化に走っているのだと思います。
茫猿は石井さんの係わってきたことの広さと深さを知り、一度、お目にかかりたくなりました。同時に「島から、高松や大阪や東京を眺めていると、絶望的になるのか、それとも、島から変えてゆくことが、高松や東京や日本を変えてゆく手懸かりなのだと、思えるのか。」、伺ってみたいと思うのです。
「未来の森」は、日本の農村や漁村のみならず日本社会が直面している問題をえぐり出していますと同時に、我々自身が今何を問われているのか、何と向き合わねばならないのかを、余すところ無く示してくれていると思います。
是非ともご購入の上で御一読されることをお薦めします。

(昨年亡くなられた作家灰谷健次郎氏の言う、)
物事に出会い何かが変わることを「学ぶ」という。
学ばない国 日本
その責任をいったい誰が負うのか
言うまでもなく、それは「あなた」であり「私」である。

 (NPOという生き方の著者島田恒氏は言う、)
一人ひとりが生き方を学ぶことで企業や社会全体がよくなり、
社会がよくなることで個人の生き方もよくなるのです。

そして「辺見庸著、いまここに在ることの恥」をもう一度、しっかりと読み返してみようと思っています。

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