秀麗伊吹山 Ⅱ

 今はこんなことを書いているときではないのです。地価公示の作業を進めて、年内が締め切りの協働作業を終えなければなりません。 でも前エントリーでささやかな茫猿の幸せを書いて、この幸せをもう少し広げてゆくことを考えますし、書かなければいけないと思いますし、皆様にも読んで頂きたいと思うのです。


 不況が声高に言われます。 職も住まいも奪われた人々の記事が溢れています。その人たちを支援するNPO法人も資金難から苦況に陥っていると伝えられます。 私は何をすればよいのであろうかと考えます。 赤十字やNHKや新聞社の歳末助け合いに募金する、NPOに資金を少しでも送るなど、様々の慈善行為が考えられるのでしょう。 それらは大事なことだし、今は多少なりとも余裕の有る者が行わなければならないことだと思います。 でも時に一過性に終わりませんか。
 止揚学園の福井先生は、よくこう仰有います。 「僕は頂けるものは何でもいただきます。 差し入れも嬉しいです。お金はもっと嬉しいです。」 でもこの笑顔の冗談めいたお言葉の後に必ず真顔になって付け加えられます。 『僕が一番嬉しいのは、皆さんがこの学園に訪ねてくれることです。』
 福井先生の言われる真の意味はこういうことだと思います。 社会的弱者が隔離され切り捨てられる社会は嫌いです。 弱者が社会の中で共生する、共生しているという実感が得られる日々が一番嬉しいし楽しいのです。 お金も物も有り難いし嬉しいが、それを支援して頂ける方の顔を見て話して、社会とつながっているという実感が、先生にしてもスタッフの皆さんにしても、何より学園に暮らす障害を持つ人たちにとって嬉しく楽しいことなのであろうと思わされます。
 茫猿は大したことは何もしていません。年に数回ほど止揚学園を訪問して、茫猿自身が癒され元気をいただくこと、春や秋に駅頭や街頭で行われている「足なが育英会」募金に協力することくらいです。 でも続けています。 歳末近くなれば、事務所の決算期が近くなれば、学園を訪問しなければと、何か強迫観念的に義務的に思うようにしています。 街頭や駅頭で足なが募金を行っている高校生達を見かければ、たとえ少額でも喜捨することを義務と考えています。 彼・彼女等の明るい元気なお礼の声が楽しく嬉しいのです。 昼の天麩羅蕎麦をただの蕎麦にする程度の募金ですが、自らに課した義務として続けています。
 何が申し上げたいかといえば、顔の見える、つながりを感じられる『布施』というものを、行ってゆきたいということです。 我々一人一人が、多少なりとも余裕がある一人一人が、弱者といわれる方々とつながっていたいと云うことです。 『絆:きずな』ということであろうと思います。
 何も「足なが」や「止揚」をお薦めしているのではございません。 それぞれが各々の身の回りで誰かとつながっている。つながろうとすることが大切なのだろうと考えるのです。 思い上がったモノ言いであり、驕る考えかもしれません。 こんなことを書きますと後ほどに必ずいささかの自己嫌悪感が寄せてきます。でも少しでも僅かでも手を携えるという実感が互いに得られるという時間が、とても大切だと思われるのですが如何なものでしょうか。 そして、今は未だ自らの日々に忙しい息子達に代わって、何かの絆を伝えてゆくのも茫猿の務めであろうと思っているのです。
 2007/07/08掲載の「はばたいて止揚」からの抜粋転載です。茫猿のいつわらざる思いです。
 福井先生の言われる「負けいくさにかける」のも、久野収氏の云われた「負けてから始まる」ということも同じことなのだろうと思います。「眼施」という言葉があります。肩肘張らずに、及ばずながら、せめて「眼施」を、心がけようと思い始めています。

「無財の七施(雑宝蔵経)」
1. 慈眼施(やさしい眼差し)
2. 和顔施(周りの人を穏やにする朗らかな表情)
3. 言辞施(相手を思いやった言葉づかい)
4. 捨身施(自分の体を使った奉仕)
5. 心慮施(思いやりの心)
6. 牀座施(自分の席を他人に譲る)
7. 房舎施(寝るところ、宿を提供する)

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