何の為、誰の為

 数日前に佐高信著「辛口百社事典」を取り上げた。 この本を拾い読みしていて気付かされたことがある。 様々な企業が様々な問題を起こしているなかで、ある種共通することがある。 会社のために良かれと考えて行った結果が、時に社会の指弾を浴びるということである。
「辛口百社事典」佐高信著 七つ森書館刊


  今でも会社の為論が肯定されることがある。 滅私奉公とか、報国論理にもつながる報社論理である。 本人は私生活を置き去りにしてまで、賞賛されるほどに企業の隆盛を目指して努力したにもかかわらず、こと志と異なり意のままにならず、思わざる結果を得てしまう。 佐高の企業批判も一読ではそう誤解させるところがある。
 誰しもが、否多くの優れた企業人は属する組織の最大利益を目指そうとする。 それが自分の利益の最大化にも通じるからであるし、そう信じるからでもある。 それは企業に限らず、人々が所属する組織や社会の多くについて云えることでもある。 小は家族の為、企業の為、地域社会の為、業界の為、そして大は日本の為。 このような論理に落とし穴が隠されていると言えまいか。 属する組織の、社会の最大利益をひたすら目指すことは一概に非難されることでもないが、手段を選ばずであったり、属する組織・社会の外部を顧みない行為は大きな陥穽に堕ちることがある。
 内部経済の極大化は外部不経済の極大化を招くことになろうし、アンフェアなトレードによる利益最大化は相手方にとって安値輸出、安値叩き買い、時に海外労働力の廉価評価になるのである。 昨今話題の派遣切りも単純に云えば、国内労働対価の切り捨て安値輸出に他ならないのであり、工場の海外移転よりも国内雇用に貢献したのだからマシだろうと嘯く経営者には何も見えていないのであろう。 
 企業利益の極大化を目指した派遣雇用という行為が、国内に派遣社員の雇用不安という社会損失を招き、国内労働力の安値輸出を行ったのだという自覚があるのだろうか。 そこには企業の労務費削減という内部経済化しか見えていないのであり、社会保障費増加、労働市場の不安定化あるいは貧困層の増加といった日本社会の外部不経済化は視野にないのである。 まして安値輸出が引き起こす世界の外部不経済化も見えていないのであろう。 
 「何の為に、誰の為に」ということは、常に問い直されなければならない。 一企業や一省庁や一業界の利益のみを追求する行為は、社会にとっては時に大きな不経済を招き寄せるものとなり、何時かは己にも返ってくる不経済となるのだという自覚を求めなければならない。 かつて云われた『利他』は、今や何処へ消えてしまったのであろうか。
 今回の派遣切り騒動を見ていても、日頃、企業イズムを吹聴し鼓舞する企業ほど、そういった他者を顧みない行動が多いように思えるのは鄙人の僻みと一笑に付すことができるのであろうか。 

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