阿修羅

 阿修羅という単語に初めて出会ったのはいつ頃のことか記憶にない。 仏(ほとけ)の対語として、あるいは餓鬼道の一つとして、何かの小説のなかなどで出会っているのだろうと思う。 しかし「アシュラ」という単語に出会ったことを明らかに記憶しているのは、40年も前の漫画週刊誌のなかである。秋山ジョージ作”アシュラ“は衝撃的であったと記憶している。


 少年漫画雑誌にこのようなものを連載してよいのかと思いながら、時々に喫茶店で読んでいた記憶がある。 アシュラ:阿修羅というつながりや深い意味も考えることなく読み流していたと思われる茫猿は、当時26歳、鑑定士受験中であり、二次試験合格以外のことは何も考えないというよりも考えられない頃だった。 早く二次三次という過程を終えて、自分が本来進みたかった道に戻りたいと、そればかりを考えていたように思い出す。 様々な事情があったにせよ、鑑定士試験三次合格後に元々希望していた道に戻ることなく、今に至ったというか至ってしまった。
 ”後悔をしている”わけではないにしても、”人生にタラ・レバは無いにしても”、様々な出会いというある種の運命(さだめ)を考える時に、再び”阿修羅”に出会ったのである。
 先週の金曜日(04/24)上州へ向かう私用があったから、その旅程を考えている時に、上野の国立博物館で(昨年、自宅で使用していた日本の仏像という暦の表紙に使われていた)阿修羅像の展覧会が開催されているのを知り、岐阜から前橋へ向かう途中、新幹線を品川で下車して山手線経由上野へ向かったのである。 入場の列が長ければあきらめて他の展示会を観るか、それともそのまま上野から上越新幹線に乗ればよいと考えていたのである。 上野へ着いたのが十時過ぎだったせいか入場者列はさほどではなく、二十分くらいと見えたから列に並び阿修羅像に対面したのである。
※東京国立博物館サイトより阿修羅展記事を引用します。

 奈良・興福寺の中金堂再建事業の一環として計画されたこの展覧会では、天平伽藍(てんぴょうがらん)の復興を目指す興福寺の貴重な文化財の中から、阿修羅像(あしゅらぞう)をはじめとする八部衆像(国宝)、十大弟子像(国宝)、中金堂基壇から発見された1400点をこえる鎮壇具(国宝)や、再建される中金堂に安置される薬王・薬上菩薩立像(重要文化財)、四天王立像(重要文化財)など、約70件を展示いたします。特に、八部衆像(8体)と十大弟子像(現存6体)の全14体が揃って寺外で公開されるのは、史上初めてのことです。
 阿修羅像は天平6年(734)、光明皇后(こうみょうこうごう)が母橘三千代(たちばなのみちよ))の1周忌供養の菩提を弔うために造像して以来、戦乱や大火など幾つもの災難を乗り越えてきました。1300年の時を超えて大切に守り伝えられた、日本の文化といにしえの人々の心に触れる機会となれば幸いです。また、橘夫人(たちばなぶにん)の念持仏(ねんじぶつ)と伝えられる阿弥陀三尊像(国宝、奈良・法隆寺蔵)も特別出品いたします。

 阿修羅像(興福寺所蔵)については、以下のサイトをご覧下さい。
1.ぐるり阿修羅像(asahi.com)
2.興福寺所蔵阿修羅
3.極彩色阿修羅像(興福寺型)
4.興福寺・国宝館
5.阿修羅像・三面の顔
 奈良・興福寺で阿修羅像に対面したことがあるのかどうか記憶にない。興福寺は何度も訪れているが、最近は国宝館に立ち寄ったことがない。昔のことであれば、歴史教科書や以前の国宝館での薄暗い展示の記憶がないまぜになっているのだろうと思われる。
 だから、さほどの予備知識無しに阿修羅像と対面したのである。 明るすぎず暗すぎず計算され尽くした照明のなか、像の台座間近まで歩み寄ることができたし、四方から遠目から拝観できた阿修羅像の印象はと云えば、随分と柔らかい印象を受けたのである。 帝釈天と戦い続け、負け続けたという仏像にしては、弱さすら感じたのである。 前を見つめ眉をひそめて、戦いの往く果てをなにやら予感するような、戦いのもたらす惨状を厭うような、およそ武将らしからぬ少年とも少女とも見える表情に慈悲すら感じたのである。
※この印象に関しては、司馬遼太郎が次のように記すのである。

 しかしながら興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に、無垢の困惑というべき神秘的な表情がうかべられている。無垢の困惑というのは、いま勝手におもいついたことばだが、多量の愛がなければ困惑はおこらない。しかしその愛は、それを容れている心の器が幼なすぎるために、慈悲にまでは昇華しない。かつそれは大きすぎる自我をもっている。このために、自我がのたうちまわっている。
 (中略) 阿修羅のように多量の自我をもってうまれた者は、困惑は闘争してやまず、困惑しぬかざるをえない。(中略) 阿修羅は、相変わらず蠱惑的だった。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心もとなさが腰から下のはかなさにただよっている。眉のひそめかたは、自我にくるしみつつも、聖なるものを感じてしまった心のとまどいをあらわしている。(中略) これを造仏した天平の仏師には、モデルがいたに違いない。賢人の娘だったか、未通の采女だったか。 
(朝日文庫 『街道をゆく 24』 P.234-235)

 
 それは中宮寺の弥勒菩薩菩薩半跏像と較べてみればよく判るのである。 中宮寺弥勒菩薩はあくまでも穏やかに微笑みをたたえた半眼におわしますが、阿修羅像は戸惑いを浮かべながらも、観る者を見つめ返してくるのである。 帝釈天と戦い、負け続けながらも戦い続けた阿修羅像は、「負け戦にかける福井達雨先生」や、「負けてから始まる久野収氏」を思い起こさせるのである。
 好きか嫌いかをいえば、中宮寺:弥勒菩薩像が好きである。でも興福寺:阿修羅像にも離れがたい魅力を感じるのである。 ところが、岐阜に戻って阿修羅像建造当時の極彩色像をネットで見たとたんに印象が変ったのである。 この極彩色阿修羅像(興福寺型)は、仏像を寺院へ納品しているM-ARTSが、”開発コンセプト・復元”をテーマに忠実に再現することを心がけて作成した像である。 極彩色と口髭を加えると印象が大きく変わるのである。
 
 薬師寺の復元建築された五重塔を見るまでもなく、千年余の年月を経た今、我々が観ている寺院も仏像も創建当時は極彩色や金色に彩られていたのであり、歳月を経て色あせ剥げ落ちた結果、何やら古色をまとい”わび”やら、”さび”までも感じさせる有り様とはおよそ異なるのである。 まさに青丹よしの世界なのであり、当時の極楽浄土の仏世界なのである。
 どちらが本当なのか茫猿には判らない。 はるかな時空を隔て、幾多の戦火にも生き残り、色あせ剥げ落ちた今が実相を示すのか、それとも創建往事の極彩色のなかにこそ仏世界が存在するのか判らない。 今を今として拝観し合掌するしか手だてがないのである。 それは、五月の若葉に先がけて散っていった花々を想うに、似ているような気もするのである。
 《この記事、鄙からの発信No.1610》
【いつもの蛇足である。】
 08年に自宅で使用したカレンダーには、以下の仏像写真が使われていた。
・表紙 興福寺:阿修羅像
・1-2月 薬師寺:薬師如来座像
・3-4月 浄土寺:阿弥陀三尊像
・5-6月 法隆寺:百済観音像
・7-8月 東大寺:金剛力士像
・9-10月 平等院:雲中供養菩薩像
・11-12月 中宮寺:菩薩半跏像 
 山と渓谷社暦は、阿修羅像についてこのように説明する。

 阿修羅も、釈迦に教化されて仏法の守護神となったインド神話の悪神であるから天部であり、仏像のなかでの地位は低いのだが、神々しいまでに品格に満ちた本像は多くの仏像ファンに愛されている。 天平六年(734)造営の興福寺西金堂釈迦群像中の像だったが、源平の争いで西金堂が消失、本像は救出され、再度の火災まで運慶造立の復興本尊像の背後に立っていた。

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