母の死後、二ヶ月余が過ぎてしまえば、母を思い出すことが徐々に少なくなってゆく。
人は死ぬと無に帰ってゆく、人に限らず生き物は総て死ねば、有機物から無機物に変わってゆく。 生き物の証である命は、その継承をDNAが司っているのであり、DNAの継承のみが命のつながりなのであろう。 母が死に遺骨に姿を変えれば、有機物から無機物に変わってしまったといってよいのであろう。
母の思い出とか魂魄などと言われるものは残された人々の記憶のなかにつながっているだけであろう。 死者は生者のなかに生きると云えよう。 昨日、NHK:百年インタビューで柳田邦男が、彼の次男の自死にふれて、このようなことを言っていた。
宗教的な意味でもオカルト的な意味でもなく、死者の魂魄というものは、不滅であると思う。 魂魄(霊魂、たましい、思い出、心情などと表現してもよかろう)は残された近しい者の心のうちに生き続ける。次男の魂魄が柳田邦男の心のうちに生き続け、死者との対話を続けているように、柳田自身の魂魄はその死後において、妻や長男や近しい者の心のうちに生き続けるであろうことを願う。
おおよそ、こんなふうに述べていたと思う。母の魂魄(母への思い、心情、たましい)が私や長男や次男の心のなかに、心象風景として生き続けるように、私の死後、我が魂魄は誰の心のうちに生き続けるのであろうかと、ふと思う。 誰の心のなかにも居なくなったときに、死者は生物的死に続いて、心象的第二の死を迎えるのであろう。
このように思い定めてみれば、葬式も法要も霊前に花を供えることも、死者へとつながる総ての行為は、自らと死者との対話に他ならないのである。 己の心象風景に過ぎないと言えばそれまでであろうが、己の心象風景としての対話を続けることが、実は己自身の生きる証なのでもあろうと思われる。
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