鎧袖一触-Ⅲ

鎧袖一触された身にも、今宵の月は冴えざえと美しい。十六夜の月明かりに照らされる茅屋の庭も心慰めてくれる。 新スキーム改善問題も、依頼者プレッシャー問題も、一つの区切りを終えたのだと思える。 鑑定協会執行部に言わせれば、始まったばかりと言うかもしれないが、対応する基本方針が示されれば、自ずと結末も見えてくるというものである。
またしても「Too Late,Too Little,Too Fuzzy」と評してはみたものの、社会の視線を代表する所管庁の意向と協会会員の不同意(頑迷固陋、不作為、物ぐさ、現状安住)などの狭間で、苦慮した執行部が取りまとめた精一杯の対応策であれば、相応の評価をすべきであろうと考える。


第285回理事会に報告された一次改善案や鑑定評価監視委員会設置提案を、弥縫策とかアリバイ工作というのは簡単だが、当事者は苦慮に苦慮を重ねた結果であろうと推察する。 惜しむらくは、現状を肯定し安住を望む多くの役員や会員に対して説得を重ねる努力が不十分だったと言わざるを得ないのである。
政治は結果が全てと申したのは、このことである。「努力を重ねた結果がこれです。」では済まないのである。 あえて予言をしておくとすれば、今回の不十分な改善策や対応策は、さほど遠くない時機に再び火を噴く火種を埋めたままだと考えている。 今回の問題提起とその対応すらも、時宜を失しかけているのである。 新スキーム改善問題は七年前の新スキーム発足当初から指摘されていたことであるし、依頼者プレッシャー問題にしても鑑定評価制度発足以来の懸案であり、それがあからさまに指摘されるようになってからでも、既に数年を経過しているのである。 長年放置してきた問題が一朝一夕に解決できるなどとは考えないが、禍根の根を断つにはとても良い機会であったと考える。
その得難い機会を事勿れに終始した。 努力はしても結果は事勿れ主義に陥ってしまったとすれば、長蛇を逸した嘆きは大きいのである。 執行部が蛮勇を奮おうとしなかったことも責められようが、執行部の前に立ちはだかって改革改善を阻止しようとした地域会・単位会の役員、それらの意を受けて動こうとしなかった協会役員、なによりも手を拱いて傍観していた会員の全てがその責を負うものであろう。 政治は民度に左右されるものであるとすれば、鑑定協会会員の民度を表すものが、新スキーム一次改善案であり鑑定評価監視委員会設置提案なのであろう。 まさにもって瞑すべしなのである。
ことの本質を理解しようとせずに、目先の表面的な利害や既得権に拘った方々は、その責を負うべきであろうが、彼ら自身が自らの過ちに気づいていないのが現実である。 いいえ、地元会員にとって、鑑定評価の将来にとって正しい選択であると信じ込んでいることにこそ、禍根は存在するのである。 その背景には地方圏士協会に存在する、鑑定協会への抜き難い不信感があり、それはそのまま都市圏鑑定業者と地方圏鑑定業者の対立でもある。 業務発注が生まれる都市圏と業務対象不動産が存在する地方圏との対立と言い換えてもよかろう。 この対立を共存共栄の方向へ誘導する努力を怠った結果が、現在の混迷を招いた根源でもある。
デジタル化時代、ネットワーク化時代における鑑定評価のある種のコモデイテイ化、情報のディスクローズ指向といった、大きな潮流を見ようとしない姿勢が招いたことでもある。 新スキーム改善案に立ちはだかった守旧派が善意であればあるほど問題の混迷を深くしたし、依頼者プレッシャー対策に倫理研修で対応しようとする性善派の気楽さが禍根を放置したのだと言えるのである。
どんなに高邁な鑑定評価将来ビジョンを掲げても、どんなに立派な規程・基準を用意していても、神棚のお飾りであっては何の意味も持たないというよりは、羊頭狗肉批判を招くだけであろうし、鑑定協会自身のコンプライアンスを疑わせるだけであろう。
もう三十年以上も昔のことになるが、当時は紙資料しかなかった取引事例をマイクロテープ化しようとしたときの地域会における騒動を思い起こすのである。
事例カードを転写したマイクロテープを会員に有償配布しようとしたら、事例を売って利益を得ようとするのか、事例を商品化しようとするのかという大反対が起きたのである。マイクロテープ化して利便性や安全性を高めようとする考えが理解されなかったのである。
当時の地域会役員は、多くの反対を説得し押し切ってマイクロ化に踏み切ったら、反対した会員を筆頭に頒布の予約が集まったと記憶する。
その後は様々な経緯を経て、今や取引事例の利活用にオンラインネットワークは欠かせないものであるという認識に大きな差異はないであろう。 にも関わらず、旧態依然たるだけでなく、安全管理担保措置に課題を残す士協会管理に拘泥し、士協会事務局閲覧を墨守しようとする姿勢は茫猿には理解の外です。 現状をもって良しとする多くの会員には、この記事はあまりにもセンセーショナルに見えることであろうと思います。 無意味なアジテーションに思えることでしょう。 今や何を吠えても虚しいことと承知しています。 井蛙が茹蛙にならないように、悔いを千載に残さないという茫猿の思いが、杞憂に終わることを願うのみです。

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