事業レビュー・地価公示Ⅲ

「行政事業レビュー・地価公示」の一時間余にわたる公開プロセスビデオを視聴していると、「狡兎死して走狗煮らる」、地価公示制度の先行きにそんな思いがよぎります。
直ちに地価公示制度が改廃されるとは思いません。しかし、初期の目的を終えた制度インフラは、時代の要請によってその在り様は変わってゆかざるを得ず、その変わり方は日本社会に根深い「なし崩し体質」により、気づいたら換骨奪胎されていたということになりはしないかと危惧します。 制度インフラに与えられたミッションは時代の変遷とともに変わらざるを得なくとも、専門職業家・不動産鑑定士に与えられたミッションは時代がどう変遷しようとも変わっては為らないものがあるのではないかと考えています。

一.地価公示と鑑定業界
地価公示の将来について危惧する発言は何も『鄙からの発信』の専売特許でなく、少なからぬ識者が何年も前から幾度となく様々な媒体で語ってきたことです。 それは、一つの制度インフラが制度創設後、時を経ることによって、所期の目的が社会の変動に対応できなくなってくれば、それ自体が変わらざるを得ないと云う、いわば定理ともいえることです。 この制度の初期目標は公共事業用地取得対価の指標であり地価抑制も黙示的指標でした。それが課税評価の指標へとシフトし、今は(当初から存在してたいた目標の一つでもある)市場における取引価格の指標たり得ているのかが問われています。

その間に、ゾルレンとして位置付けられることの多かった地価公示価格は、ザインへと移ってゆきました。 市場における適正な在り処指向から、その是非はともかくとして、市場価格指向(追随とも表現できるが)へとシフトしていったのです。 問題は、その制度インフラに関わる行政や、事業に密接に関わる集団が(地価公示であれば鑑定業界)、それら時代の変化や社会の要請に的確に真摯に対応してきたか、否かが問われているのであろうと考えます。

地価公示と鑑定業界というテーマを考える時に、少なくない鑑定士諸氏が述べることがあります。
それは、a.地価公示が鑑定評価を歪めている。 b.地価公示がなければ価格指標を求める鑑定評価需要は増えるし、鑑定評価の自由裁量度も増えて良い結果をもたらす。 c.自分は地価公示をはじめとする公的評価には従事していないから、公示などどうなっても構わない。 などなど、斜に構えたというか、随分と無責任にも思える主張があります。

その歴史を考えるまでもなく、鑑定業法と地価公示法は双子ともいえる存在であり、地価公示の帰趨は鑑定評価の行く末に大きな影響を与えるであろうことは論を待たないことであろうと考えます。 何よりも鑑定評価の基礎資料の大きな部分を占める事例資料(取引だけでなく、賃貸、収益、建築、造成等各般の資料)の多くは地価公示事業に依存しているのが実態ですし、他にも多くの資料が地価公示由来資料であるのも実態です。

不動産鑑定評価制度の発足と時を同じくして創設された地価公示制度は、制度インフラとして成長し充実してきたという歴史があり、不動産鑑定士はその過程に深く関わってきました。だから地価公示制度への批判はすなわち、関わってきた不動産鑑定士への批判でもあり、無作為・不作為に過ごしてきた鑑定士集団への批判であると受けとめるべきでしょう。 所管庁だけの責任に帰する姿勢は、専門職業家としてはあまりにも無責任と云えます。別の観点から云えば、所管庁が何とかするであろうという姿勢も、甘えが過ぎるし専門職業家としての矜持や鼎の軽重が問われることでしょう。

地価公示をはじめとする公的評価に携わらない鑑定士も少なくないし、鑑定士ライセンスの基盤という優位性を活用するコンサルタントも決して少なくないのも事実であり、そんな方に多いのが公的評価を見下ろし吾関せずという姿勢です。 鑑定協会の資料をはじめとする支援に一切依存しないのであれば、何を語っても構わないと思いますが、受益には口を拭い、公的評価に関わる協会活動を傍観し、我が道を行く姿勢は如何なものかと思っています。

鑑定唯我独尊論などは論外と考えますが、自らの存立基盤が鑑定士ライセンスであるのならば、社会における鑑定士への信頼性向上が最優先順位であろうと考えます。 その意味で、それら鑑定協会提供資料等ただ乗り鑑定士や、協会活動傍観鑑定士には違和感を感じます。 また、地価公示や新スキーム調査の過重な負担を言いつのり、ボランテイア活動に近いと言う方も多いのですが、受益部分を語らずに負担ばかりを言揚げする姿勢にも違和感を感じます。 負担の重さを言う前に、負担を軽減する方法を模索するべきでしょう。さらに云えば、鑑定士ライセンスを有する者は、「ノーブレス・オブリージュ」の認識の有無こそが、その方の存在意義を左右すると考えます。

二.地価公示と取引価格情報提供制度
事業レビュー・公開プロセスから見えてくる背景とか底流について考えています。
法に基づく制度インフラである地価公示が直ちに廃止されるなどという想像は不要であろうが、「地価公示スキームのなかでの取引事例調査」が、「取引価格情報提供制度スキームのなかでの地価公示」へという方向変換、つまり制度インフラが方向転換して行く端緒を現しているという懸念の蓋然性は低くないと考えています。 当初は「地価公示スキームにおける取引価格情報提供制度:事例調査」であったものが、いつの間にやら「情報提供制度スキームにおける地価公示:事例調査」に変質してゆく過程の一つの節目が、2012.06.15実施の事業レビュー・公開プロセスであったような気もするのです。

また、所管庁から事例調査に対する要求が年々厳しくなっていると仄聞するが、必要以上の調査項目要求については断固はねのける鑑定協会の強い意志を求めたい。須く、自らが利用しないデータに多くの労力や時間を費やす余裕はないのであり、原始データとして調査必須事項の絞り込みが望まれる。 出来得れば、地形図並びに緯度経度情報を入力すれば、あとは自動的に調査項目が充足するシステムでありたいものである。 「新スキーム制度改善問題」の骨格は三次データの利活用便宜を図ることであり、四次データなどは「ダシガラ問題」に過ぎないのである。
必要な時に必要な三次データの量が確保できればよいのであり、そこで必要に応じて使用者が詳細調査を行えばこと足りるのである。

霞ヶ関の根強い不文律というものを考えれば、地価調査課の課益というものが存在し、地価公示はその課益に叶うものと鑑定士は考え、その課益に添うことが業益にもつながると考えている。しかし、課益は所詮課益であり、土地・建設産業局の局益の前には優先順位は変わらざるを得ず、その局益・省益というものも、霞ヶ関の総益の前には虚しいものとなるのであろう。 公開プロセスに招集された外部識者は、当該事業所管庁が指名した者であるという事実に潜む寓意を読みとるのです。

この点について、数年前に霞ヶ関OBが語ってくれたことがある。我々霞ヶ関官僚は公益に資する提案や要望であれば真摯に検討し支援もするが、一業界の業益を支援することなどあり得ない。いわば、霞ヶ関が理解できる公益の大義を持たない提案など一瞥も与えないということである。

課税評価の指標という位置付けに地価公示等を置くのであれば、地価公示や地価調査として独立に存続させる必然性は乏しくなるのであり、相続税標準地や固定資産税土地評価標準宅地の一部を地価公示等に置き換えればこと足りるのである。 公的評価の一元化とか制度インフラの適正配置という観点からしても、機能強化につながると考えられるのである。その時に取引価格情報提供制度という制度インフラがどのように位置付けられるのか、今や不動産市場においてその存在感を高めつつある「取引価格情報データベース」を誰が調査実務に従事し管理するのか、いかなる集団が調査データの優先的利用権を得るのか、という観点から眺めてみるのも無駄ではないと考える。

同時に地価公示だけを見ていては、見えてこないものも多いと考える。公的評価需要を除けば更地評価需要から複合不動産評価の需要に大きくシフトしている昨今の鑑定評価状況のなかでは、更地評価に限定される地価公示や公的評価需要(課税評価、公共事業用地取得関連)が等閑に考えられたり、関与しないことが時代の先端にいる鑑定士のように錯覚されるのも無理無いことであろう。 その意味からは地価公示を見ているだけでなく、鑑定評価全般を見直すべきであろうと考える。

三.地価公示(鑑定評価)七不思議
地価公示のあり方について日頃から考えていることを幾つか述べてみたいと思う。題して地価公示七不思議(鑑定評価七不思議でもある)である。

(1)土地残余法重用の不思議
更地評価重視時代の残滓ともいえる土地残余法を、複合不動産評価がウエイトを増した今に至っても未だ重用している不思議さ。控除する建物部分帰属収益の査定に、評価主体の恣意が介在したりバイアスが懸かってしまう危険を内在させているのではないか。
土地残余法には様々な批判が存在するが、特に中低層住居系評価に於いて想定収益の想定条件が的確であるのか否かの検証や、評価対象地が地理的位置として収益想定が妥当であるか否かであると同時に、画地規模的にも収益想定の妥当性を検証する必要がある。 収益想定の経済的合理性の有無あるいは多寡も検証すべきであろう。

もし、残余法に相応の妥当性を見出そうとするのであれば、実際の利用状況が賃貸住宅敷地であれば残余法想定にも妥当性が認められるであろう。 分譲マンションにおいて賃貸想定を行うような場合である。中低層賃貸住宅敷地においても同様のことが云えるであろう。

収益価格は本来、将来に獲得できるであろう収益の総和を現在価格に引き戻す手法である。いわば将来予測如何に収益価格の当否は懸かっているものであり、それはそのまま還元利回り判定にあり、投資予測分析でもあり、投資家の判断資料でもある。

(2)配分法検証の不思議
同じく、更地取引よりも複合不動産取引が多くを占める事例基礎資料の時代に、配分法を重宝せざるを得ないとは云え、無批判に配分法事例を重用する不思議さである。 配分法には土地残余法と同じく、建物帰属部分価格の査定に恣意が介在したりバイアスが懸かってしまう危険を内在させている。 配分法は予定調和に陥っていないか、再検証手続きは必要ないのか。(予め決まった結末が定められ、物語がその結末へ向けて収束する事を俗に予定調和と呼ぶ。) 配分法事例を多数並列して、控除した建物価格の妥当性検証が必要なのではなかろうかと云うのである。

元来、少ない更地等取引事例の得難さを補う手法であり、むやみな偏重は好ましくないとされるものであるが、市場に得られる事例の大半が複合不動産事例と為りつつある昨今では、配分法の要である配分手法について評価主体の恣意性を極力排除する再検討が必要であろう。

(3)地域要因格差比較と個別的要因格差比較の矛盾放置の不思議
地域要因と個別的要因の重複による誤謬は生じないのか。 不動産鑑定評価基準においても土地価格比準表においても、示されている地域価格形成要因と個別的要因には重複するものが多数存在し、しかも、評価主体の判定に依存する要因も相当数存在する。 これらは相乗効果による誤謬を生じないものであろうか。 ここでも、算盤・電卓の時代の残滓が、デジタル化・PC時代に至っても放置されている不思議を見るのである。 1975年に作成された土地価格比準表が、1994年の六次改訂を最後に、その改訂作業が放置されているのが不思議なのである。

(4)地価公示評価を鋳型にはめることに汲々とする不思議
地価公示鑑定評価書は様式が定められている。これは成果物の納品検査など管理上の便宜、公的評価として一定レベルの評価書を求めることなどの他に、最近ではデジタル化納品の便宜を図ることなども書式統一の目的である。

本来、地価公示も含む鑑定評価書は鑑定評価を行った不動産鑑定士の判断結果としての意見表明である。 評価主体の個性発揮を狭め、書式が求めていることを充足すればこと足りるという評価になってはいないのだろうか。 自己表現としての個性発揮や、自由裁量はじめ、鑑定士の判断と意見表明の産物である鑑定評価書に戻せとまでは云わないが、個性を発揮させる場の検討もすべきではなかろうか。 その意味からしても、定型文句の羅列やルーティンワーク化していないかを検証する意味からも、地価公示評価書の開示は当然すぎるほど当然なことと考えるのである。

(5)地理情報に無関心である不思議
不動産市場は地理情報を活用する方向に以前から向かっているのに、斯界は事例資料等について地理座標値(緯度経度情報)を付加することに、未だ無関心であるのがとても不思議である。

(6)本末転倒の不平不満を放置する不思議
地価公示の負担が重い、なかでも事例調査の負担が重いという。 医者であれ、弁護士であれ、鑑定士も当然のこと、銭儲けを一番に考えるようになったら堕落する。 当然の正当な報酬を否定するものではないが、自らの活動の基盤である事例調査を厭うようになったらお終いなのである。

同時に地価公示も事例調査も、当然のこと鑑定評価というものも、際限がない仕事である。 掘り進めばきりがない。 納期、割くことの出来る時間、投下可能な経費、自らの処理能力などを考え合わせてある種の妥協を重ねているのが日常の実態でもある。 であればこそ、デジタル化、作業の合理化、近代化を常に考えていなければならない。 新しいコンピュータシステムを導入すると、使いこなせないで文句ばかりを言う会員が多いから、導入を見合わせようとか慎重になどという姿勢は本末転倒なのである。

制度インフラに支援されている鑑定評価(地価公示)という存在であることを正しく認識し、そのうえで、より使い易い制度インフラに変えてゆくように提案すべきであろう。 その際に窮屈な財政状況を考えるまでもなく、金銭的要求を最初に掲げるのは愚かなことであろう。 事例資料利活用に関わる優先順位をさらに確かなものにすることを優先し、より的確にしてかつ簡便な事例調査システム構築を検討すべきであろう。 地理情報システム採用などはその好例と考える。

(7)情報開示が求められる時代に情報を囲い込む不思議
情報産業の一角を占める専門職業家でありながら、情報というものの本来的根源的なあり方を軽視し、誤ったあり方を模索する不思議さを云うのである。

思えば『鄙からの発信』は、その初めから情報の管理と利用のあり方について、その望ましい姿について語り続けてきたように思う。 秘匿する情報の上に成り立つ鑑定評価など何ほどのことがあろうか、開示された情報を基盤とする不動産鑑定評価こそが、真の鑑定評価であろうと思う。 同じ情報を基礎としながらも、そこに示される分析能力や予見能力の違いにこそ鑑定評価の価値があるのだと、今さらながらに思うのである。
2006/04から始まった、いわゆる新スキーム、すなわち不動産取引価格情報提供(開示)制度は何を目的としたのかについて、鑑定士は理解不足だった、あるいは意図的に理解しなかった。 不動産の取引価格情報提供制度の目的は「誰でも安心して不動産の取引を行えるように、 数多くの取引価格情報を蓄積し、国民の皆さまへ提供していく、国の制度」であるにもかかわらず、狭い範囲の鑑定士集団のための取引事例収集制度であるがごとく、矮小化して理解しようとしたことに、現状につながるそもそもの課題が存在すると考える。

取引価格情報提供制度は不動産鑑定評価との関連に関して、「情報が充実することは、専門家にとっても重要です。不動産の取引価格情報の公表によって、不動産の鑑定評価もより多くの情報を活用して行えるようになれば、信頼性が一層確かなものとなります。」ことを目的としていた。 この本則に立ち返れば、現在直面する様々な問題を解決する方向が自ずと見えてくるのである。 即ち、全ての方向は情報開示、情報共有にあったのだということです。決して情報の囲い込みや、情報データベースへのアクセス制限などの方向にはなかったということです。

四.不動産鑑定士の未来
情報処理産業の一角を占める専門職業家としては情報を収集し、処理加工分析の結果を提供して報酬を頂くというのが本則であった。 どれほどボリュームがあろうと、どれほどビジュアルであろうとカラフルであろうと、依頼者に無価値な情報提供には対価が支払われないものであるにも関わらず、予定調和の世界に安住してきた。 公的評価の世界、国土法監視区域の世界、誤解を招くかもしれないが証券化評価の世界もある種の予定調和の世界であった。 だから評価書が一定幅のベクトルのなかにあれば報酬を得られたが、今や真に依頼者に役立つ情報提供がなければ報酬が支払われないだけでなく鑑定評価需要すら皆無と為るであろう。

鑑定士ライセンスに依存しないコンサルタントやカウンセラーであればともかくとして、鑑定士たる者は鑑定士である前に、あるいは鑑定士であると同時に優秀かつ有能なコンサルタントやカウンセラーでなければならないと考えます。 そうでなければ、ただの鑑定屋あるいは評価屋に過ぎないでしょう。

『鄙からの発信』は、不動産鑑定評価が社会的に有益な業務として認識される為に、鑑定業界は自らの主導のもとに、不動産センサスを創設し、鑑定評価レビュー制度を創設しなければならないと考えている。

不動産センサスの創設に深く関わるだけでなく、その調査並びに分析に関わり、迅速性と的確性を常に追求してゆくことが肝要であろう。 その代価は実態としての事例資料の優先利活用であり、放置しておけば地価公示委嘱の有無という管理強化のみが増してゆくであろう。 地価公示に従事することが他の公的評価委嘱の必要条件に為りつつある今、公示の公的評価全体に占める位置や、公示由来データの優先的利用権について、今一度、根本から問い直されなければならないと考えている。 《妄言多謝》

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