九月一日、防災の日である。 折しも八月末には、南海トラフ地震の地震震度・津波予想高そして被害予測が公表され、最大予測死者数は32万3000人を数えるという。 生きているうちには起きて欲しくない地震であるが、常在海溝(トラフ)の日本列島であれば、たった今起きても不思議はない。
『必死の観念、一日仕切なるべし。 毎朝心をしずめ、(中略) 大浪に打ち取られ、大火の中に飛び入り、大地震にてゆりこまれ、数千丈のほき(崖)に飛び込み、(中略) 死期の心を観念し、朝毎に懈怠なく、死して置くべし。 』 (最近読んだ、「死ぬことと見つけたり:隆 慶一郎」 より引用する。葉隠の一節である。)
朝毎に懈怠なく、死して置くべしのことは、さておき、今日の空は九月空である。 陽射しは厳しいが、木陰に居れば風清かであり、真夏には痛いほどに冷たく感じた井戸水が、冷たいことは冷たいが、ずいぶんと柔らかに感じられる。 真冬になれば暖かく感じる地下水であれば、体感温度差が、それだけ小さくなったということであろう。
夏草を刈り払った汗を流そうと、井戸水シャワーを浴びながら見上げた空には、白雲が澄んだ青を背景に鮮やかな姿を見せていた。 画面右下隅には、赤く色付き始めた山法師の実が見えている。 いずれ濃い紫色になれば、素朴な甘味が楽しめる。 木の実といえばカボス(香母酢)が、収穫間近になっている。 秋刀魚に香母酢の秋はもう身近なのである。
葉隠れが武士道の代名詞として一般に浸透したのは、明治以降、日本が軍国主義としての体裁を整えてゆく上での出来事である。そこには多分に軍部の大衆操作的な指導が入っている。《「死ぬことと見つけたり」の解説・縄田一男より引用》
葉隠れを素直に読めば、時代を超えて日々の過ごし方(生き方)についての指南書であり、イメージトレーニング作法的な読み方 もできるのであろう。 そこには「桜の散り方」について「男の散り際」のごとき、穿った解釈の蔓延とも相通じるものがある。 「死ぬこととみつけたり」はすなわち「生きることと見つけたり」なのである。
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