原発難民の詩

原発難民の詩」とは、過日行ってきたドキュメンタリー映画「立入禁止区域・双葉:されど我が故郷」の上映会にて併催された、詩の朗読会で読まれた詩集のことです。

著者の佐藤紫華子さんは、原発事故でふるさとの福島県富岡町を奪われた、84歳の「原発難民」です。 避難を繰り返し、いまは元警察官の夫・武雄さんと同県いわき市の仮設住宅に住んでいます。 事故の直後から、紫華子さんは思いを詩に託していました。そして昨年、『原発難民』『原発難民のそれから』という2冊の詩集を自費出版します。それらに新たな作品を加え、再構成したのかこの本です。 《原発難民の詩 はじめにより引用》

篠笛の演奏をバックに朗読された詩は、原発立入禁止区域に居住し今は仮設に避難を余儀なくさせられている者のみが語ることができるものであり、会場の神戸町中央公民館大ホールのほぼ七割を占める観客に強く訴えるものでした。 

《掲載されている詩を引用することは避けて、詩集の巻末に記される作者のあとがきの一部を引用します》
逃げている間は夢中で、何が何だかわかりませんでしたけれど、どうにか落ち着きを取り戻してホッと息をつきましたら、恐ろしくて、悲しくて、たとえようのない切迫感におそわれて、何かしなくてはいられませんでした。それが詩となってあふれ出たのです。
避難している人からは、「私たちが思っていることを書いてくれてありがとぅ」と感謝されました。「枕元へおいて寝ると、苦しいのは自分ひとりではないのだという安心感が生まれるの」という声を励みに、詩を書いてきました。
「本の最後は、できれば希望が感じられる詩がいいですね」
編集者にはそう言われましたが、仮設にいると暗い話ばかりが見えてきます。
「あんた方はいいもんだ。金をもらってただ食いしてるんだから」とか、「双葉郡の人たちは原発推進派だったから、しようがないんだ」などと陰口を叩かれたり、面と向かって言われたり。外へ出るのが怖いという人さえいます。私はこの事実を後世の人のために書き残したいと思います。

話に脈略はないけれど、伝えること伝えられておくことは大切だと、この頃になってしみじみと思わされている。 母が告知を受けてから二年、病床に横たわるようになってから数ヶ月、日に何度かは母の枕元に座っていたけれど、母が語る繰り返しの多い話を聞いていただけである。
「何か聞いておくべきことは?」と尋ねたことも無かったし、「長いあいだご苦労さん」とも「あれもこれも、有り難う」とも伝えたことはなかった。 そうでなくとも、「これは死に病なんだね?」とか、「何か仕事がしたいけれど、もう何もできない。」とか言われて、あとの会話が続かなくなっていた。

亡くなる前の一ヶ月ほどは、父が母の寝るベッドの横に座っていることが多かったから、母との会話も少なくなっていた。 父は母の逝ったあと半年足らずで跡を追うように急逝したから、そうでなくとも会話の少ない父と息子のあいだに、伝えることも伝えられておくことも無かった。 齢七十ちかくもなってから、こんな思いに苛まれるとは思いもしなかったのである。 つくづく、伝えること伝えておくことは大切なのだと思うし、後回しにしてはいけないことなのだと思わされている。

ささいな私事とは比べようもないことではあるのだが、今記録し伝えておくべき、ドキュメンタリー映画「立入禁止区域 双葉」を作った双葉町出身の佐藤武光監督、語り残しておくべき詩集「原発難民の詩」を刊行した84歳の富岡町出身・佐藤紫華子さんは、たいした人だと感じ入っている。

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