技術力と技能力 Ⅲ:デジタルリテラシー

サイトの旬と題する記事を掲載して以来ずっと、『鄙からの発信』をどうしようかと考えている。ウエブサイト:塾『鄙からの発信』のつもりで、視点を変えて鑑定評価を語ってゆこうとも考えているのである。 現役を退いてもう四年目、浦島太郎度が深まるにつれて斯界の現状について語る資格がなくなってきた。 でも間遠ながらにも折々に考えることは記事にしてゆこうと考えている。いわば雀百まで踊り忘れずの心境でもある。

先の記事で、『技術と技能とは類似する用語であるが、ここでは技術=(デジタル)テクニック、技能=スキル《技術を利活用する能力、あるいは技術というものに向き合う基本姿勢》と云う意味で考えている。』と述べたのであるが、もう少し技術力と技能力について敷衍してみよう。

アナログ時代の技術力は個人の能力に依存し、個々人が不断に技術力を高める努力が求められたのであるが、デジタル化並びにIC化の進展は高度な技術の普遍化と低価格化すなわちコモデテイ化を押し進めたのである。 冷蔵庫や電気釜にまでICチップが内蔵されるようになり、携帯電話はマイクロコンピュータへと変貌し、十年前には手の届かなかった高度な技術が、様々な分野で容易に利用可能となり広汎な情報を入手できるようになったのが現代である。

しかし、それらコモディテイ化と一括りに出来る技術力の向上あるいは利用可能となった高度技術というものは、一方で技術利用者の基盤的能力の有無及び多寡を試すようになっている。 スマートホーンがもたらす光りと影と言い換えてもよかろう。 スマートホーンやノートパソコンが内蔵する技術は安価に入手できるし、その利用に関してのマニュアルや教習も充実していると言って差しつかえないであろう。 鑑定評価においてもPC利用の進展、支援ソフトの充実、基礎資料(基盤情報)の見かけ上の充実は、鑑定評価の省力化や普遍化をもたらしたと云えよう。 しかし、スマホやパソコンやインターネットの光りだけでなく影《闇》というものを知った上で使いこなしてゆく技能というものは、依然として個々人の不断の努力が欠かせないのである。 早い話が、統計処理技術は格段に進歩し使い易くなったが、統計の影に潜む闇を洞察する能力というものは衰えるばかりではなかろうか。

同時に技能の伝承、特に容易に入手可能となった技術力に向かう心構えの形成とその伝承というものが、とても重要になってきているのではなかろうかと考え始めている。

古い奴だとお思いでしょうが、効率主義の蔓延に疑問を持ち、「鑑定」と「評価」の違いに心し、アベノミクス一辺倒の風潮に疑問を抱き、グローバル資本主義の闇とグローカル資本主義の光りを思うことが大切だと考えている。 総理と日銀総裁の施策表明に端を発し、僅か数ヶ月間で75円から100円へと33%もの円の切り下げが行われたにもかかわらず、米国をはじめEUからも中国からも韓国からも声高な異論が聞こえてこないというのは、とても不思議なことである。

円安容認の対価として何が密約されたのであろうか。大幅円安を容認した代償はTPP参加と尖閣付近の緊張拡大それに米国債の追加購入要求であるとすれば、とても判りやすい。 それが直ちに戦争に直結するとは考えたくないが、軍備増強に結びつくであろうことは容易に推論出来るし、既に現実のものとなっている。 オスプレイ購入検討然り、大型沿岸警備船艦増強然りであろう、海兵隊の創設まで検討されているというではないか。

何よりも自国通貨の価値が下がることが、そんなに嬉しく好ましいことであるとは、とても考えられない。 そこでは日本経済に占める輸出の位置というものが戦後間もない頃と同じに扱われているし、原材料、飼料穀物、そしてウランと原油・天然ガス・石炭純輸入国である日本のファンダメンタルという視点が欠け落ちているのであり、自国通貨の地位向上に払ってきた長年にわたる先人の努力を無にするものであろう。

長期にわたるデフレの原因を円高にのみ帰してよいのであろうか、国内消費の低迷は給与所得の低迷であり、即ち中産階層の低落そして消滅にその原因を求めるべきではなかろうか。 そこに求められるものは安定した雇用、持続する《中流階層》個人資産形成である。 国内の1%の国民が99%の富を所有するような二極分化であったり、一億総非正規就業者化では決してないはずである。 アベノミクスのまやかしは「自国通貨の価値低落を歓迎する」ような、いわば「非国民といっても差しつかえないような」、近視眼的並びに一部富裕層迎合政策にあると考える。

もちろん、永遠に続く右肩上がりの上昇などというものは、あり得ないことである。 であれば安定指向が否定されてよいはずもなく、言われ続けてきたことではあるが量的拡大から質的向上へと方向転換することも求められなければならない。 質的向上の方向は多様であろうし、その多様性こそがまさに質的転換なのではなかろうかと考えるのである。

その多様性という意味に於いて茫猿は好奇心を大事にしたいと考えるし、青春とは好奇心であり物見遊山《心》であろうと考えるのである。 好奇心さえ残しておれば、今も青春なのであろうし、日本人が好奇心を持ち続け多様性を楽しむゆとりを残しておれば、円安輸出で他国に迷惑をかけたり、国境に緊張を引き起こして軍備増強合戦に巻き込まれることもなく、「若い感性と知性を有する青春国家として世界に名誉ある地位を占めたいと願う」、憲法前文に込められた思いが可能なものとなるであろうと考えている。

話を拡げすぎた。 次回はもう少しテーマを絞り込んで吠えてみようと思っている。  梅雨明け盛夏到来とともに木槿の花が開いた。夾竹桃の木槿そして百日紅は照りつける太陽にふさわしい勢いのある強い花だ。

 

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