絆はヤンキー気質?

3.11以後に多用されている言葉に「絆」がある。 誰が言い始めたかはわからないが、震災以後から今に至るまで世間を席巻している言葉である。 茫猿は実のところ、「絆」の蔓延に少なからぬ違和感を感じていた。 TV、新聞で識者のコメントで、果ては広告媒体にも絆、絆と溢れてゆくさまに違和感を感じていた。 その違和感に明解を与えてくれる記事に出会った。

「絆」が溢れ、手垢にまみれてゆくことに最初は違和感を感じていた。「おまえさん達は他にボキャブラリーを持たないのか」と思っていた。 次に、絆、絆と言うけれど絆はそんなに優しいばかりの意味ではなかろうと思うようになっていた。

広辞苑などに拠れば、「絆:馬犬などの動物を繋いでおく綱」「絆:断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。緊縛。」とある。 転じて「つながり」ではあるが、束縛性の強い繋がりとして利用されるようになっていた。この「絆」を被災地・被災者と非被災者をつなぐ“優しさ”をあらわす字句として用いることに違和感を感じていたのである。

この違和感を過不足無く説明してくれる記事に出会ったのである。
「ヤンキー的な気合主義が蔓延している:精神科医の斎藤環氏に聞く 東洋経済online」

ヤンキーは仲間と家族を大事にする。安倍さんの親学への親和性、子育てに対する考え方や家族の絆を大切にするという発想がヤンキー的です。福祉や弱者保護は国民の絆任せにし、政府はおカネをじゃんじゃん刷って経済をもり立てればいいという発想も、ヤンキー的なアゲアゲのノリをうまくとらえている。

みんな絆という言葉に弱いですから。そもそもは拘束や動きを束縛するという意味を持つ絆という言葉が、特に震災を契機にして麗しいもの、なくてはならないものという言葉に変わっていく様は奇妙ですが。

言い得て妙である。 この記事はストンと臓腑に落ちてくる。詳しくは、引用するサイトをご覧になっていただきたいが、「絆、絆、絆を大切にしよう。」という世の中あげての風潮に誰も逆らわずに流されてゆく違和感、「被災地の人々を忘れない、思いをつないでゆこう。」という趣旨には逆らいようもないけれど、「猫も杓子も“絆”を免罪符にしているような風潮」、「極まりはTシャツに“絆”を染め抜いているような風潮」には違和感を感じていたけれど、違和感を感じていることは不思議なことではないと知らされたのである。

牽強付会と云われかねないかもしれないが、「一つの言葉で、世相を染め抜いてゆくような風潮」に違和感を感じることは、それほどに間違っていないのだと思わされたのである。 読み過ぎかもしれないが、《結構、あり得ることでもある》、背景に電通や博報堂とTV、新聞がつながり政財官界奥の院が乗る、《それこそ絆が》行う世論操作でなければ良いのだがと思っている。 同時に、紹介する記事のような「もの申す」ことが大切なのであろうと思っている。

一つの言葉で世の中が染め抜かれてゆくような風潮は、よくよく考えてみればおかしなことであり、空恐ろしいことでもある。 それが、バンカラ、ツッパリを経てヤンキーに至る、日本社会の底流に流れている“やんちゃな”仲間主義が世間に蔓延しているのだとすれば、とても見過ごせないことである。

 

関連の記事


カテゴリー: 只管打座の日々, 茫猿残日録 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください