阿Qの世迷い言(再)

「忘れてならない事実と真実」と題する記事を載せてから、「鄙からの発信」初期の頃の八月には何を書いていたかとアーカイブを検索したら、此の記事に出会った。面白く読めたし色褪せてもいないと思えるので再掲しておく。「阿Qの世迷い言 投稿日: 2000年8月2日」 なぜ茫猿を阿Qに喩えたのか、今となっては知る術も無い。

こんなEmailをもらって、何かと考えました。《Email引用開始》
「閉塞」と呼ばれるものは、果たしてネガティブなだけのものなのか。
もちろん、誰だって希望のない未来よりも希望のある未来の方がいい。
頑張ったら頑張っただけの成果が上がればうれしい。
でもそうならないのが現実。

つまり「期待していたもの」と「実際手に入れたもの」のギャップに人は失望したり、満足したりします。はじめから期待しなければ失望感も少ないわけです。「閉塞感」も、「今頑張れば将来幸せになれる」という幻想を信じていたからこそ感じるものです。たとえば私たちが受けてきた教育は、必要以上の欲望と期待をあおり(誰もが頑張れば東大に行く、大企業に就職できる)、さらにいつまでもそれをあきらめさせてくれないシステムといえます。早い時期にあきらめて、方向転換をした方が良い人もいたはずです。

「あきらめる」というとネガティブに聞こえますが、それは一つの価値から別の価値へ移るだけのことです。ところが各価値には、本質的に差が確認できなくても、社会的に差があります。(職業に貴賤はないという言葉が欺瞞にあふれるものだということです)
この根底には、「経済成長=善」、「公>私」といった考え方があります。その根底から疑ってみる必要があるように思います。《引用終了》

はてさて、「職業に貴賤があるのでなく、生き方に貴賤がある。」と申し上げたら、それは社会的な差をただ糊塗するだけのものであり、そのような云い方こそが、為政者や権力者に都合の良い儒教的な言い回しに過ぎないと反撃されましょうか。

そんな折りも折りに、「死んでいるように生きている人より、生きているように死んでいる人のほうがすばらしいと思いませんか?」という、脳天直撃的一言を某MLメンバー氏から頂きました。

《注記》この頃の「鄙からの発信」はML(メーリングリスト)も併設してたが、素晴らしい一撃をくれるMLメンバーもいたようである。今となっては、どなたかも分からない。此のMLメンバーは最盛期には800名を超えていたように記憶する。この数字は事実であり、脳天直撃的一言をくれた某MLメンバー氏は真実なのである。

《閑話休題》
閉塞感が将来に対する漠然とした不安から生じるものであるとして、先行きの不安は決定的な局面では起きないモノである。まだ余裕のある状態にいて、この状態が破綻、崩壊しかねない予感におののく時の方が不安感が大きいモノである。カタストロフィに至ってしまえば、不安もくそもない。

急勾配を降り始めたり、宙返りを始めたジェットコースターは不安でも何でもなく、ただしがみつき絶叫するだけのことである。降り始めるまでの予感におののいている時の不安感には譬えようもない。

成長指向にどっぷりと浸かっていた戦後が終わったのは、昭和の終わりと同時だったのか、それとも昭和50年代に終わりが始まったのか。 「明日は今日より、来年は今年より良くなる」という小市民的考え方は、肯定的に受け止められてよいのだと思います。

しかし、「良くなること」の中身が収入であり、部下の数であり、家や車の大きさであったことに問題があったと思うのです。企業的に言えば売上げ指向、シェア拡大指向「そごう」的行き方です。

その意味からは、ナンバーワン指向からオンリーワン指向は歓迎できることです。ただ、40年或いは50年かかって形成された拝金主義的かつ数量至上主義的な社会の意識は少なくとも同じ期間を要しないと変わらないのではないでしょうか。

意味は異なりますが、無形の社会規範という意味からは、神仏混淆や檀家制度などの、村支配的江戸期の呪縛から未だに抜けきらないことを見ても、それは云えることと考えます。

異端は排除しようとし、理解できないことは異端の範疇に組み入れてお終いとする風潮は、簡単には変わらないでしょう。個人も企業も自治体も政党も政府も常に隣と比較しようとするサガも江戸期呪縛の残滓でしょう。

今の閉塞感は、成長・拡大神話の破綻がもたらしたものであることは、ほぼ間違いないとして、次の神話が見いだせないことが一番大きいのではないでしょうか。

昔、「貧乏人は麦を食え」と言った政治家が、数年後に「所得倍増論」を掲げて、自分のイメージを変え社会に目標をもたらしました。 「住専は潰れるべくして潰せ」といい「膿を切開する痛みを分かち合い、再生しよう」と、10年前に言っていたとしたら、現在はどんな時代になっていたでしょう。タラ・レバはないのが歴史の必然ではありますが。

ジクジクと膿続けるおぞましさが、社会に蔓延しているのだと思います。ゼネコン、銀行、デパート・スーパー、問題を小出しにして自己保身を図り、任期を逃げ延びることを第一目標とする。

亡くなった政治家の後援会に群がり、西も東も判らないお姫様を血脈大事と御輿に担ぐ城代家老達には己の醜さが鏡に写らなくなっているのです。大なり小なり醜い者達が集まりますから、目糞鼻糞、五十歩百歩の在り様なので、中に居ると見えないのですす。

山一の社長が号泣記者会見をしたのは象徴的であったと思います。号泣は情けないけど、号泣しただけでもまだましなのです。以後の陳謝遺憾記者会見に登場する社長や役員達の醜さ、顔の品のなさは閉塞感そのものです。怒号で追い回す記者達も同じ穴のムジナみたいに見えますが。

目標が見えなくなった時代は、不幸だと思います。個人的にも目標を失えば、「考える葦」が考えることを止めるのと同じであり、精神的存在感のない「ただの葦」になってしまいます。

その意味では、「豊かな老後」を送る人々の生き方が参考になるのではないでしょうか。「豊かな老後」とは経済的な意味ではなく、個人が個人として自立し、自身の存在感に自信を持ち、今日を豊かに生きているというような意味です。一番大事にされるべきは、品格ある毎日ということではないでしょうか。私はとても品格などといえるモノではないですが、少なくとも「品のない生き方からは遠ざかろう」、「先を醜く争うよりは痩せ我慢に甘んじよう」と、かくありたいと思います。

これらの文脈から、我が鑑定業界のことを語るのは容易いことですが、それはよしにしておきましょう。迂闊に語れば、自分とて天に唾することとなるのは自明であり、斯界の頚城から逃れ得ないのもまた必然の理ですから。本日はこれまでにしておきます。

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