本田靖春著作集・村が消えた

【茫猿遠吠・・本田靖春・・02.03.25】
 先号で「茫猿の紙魚(シミ)」と題して、本田靖春著作集を取り上げました。
氏の著作集のなかで「村が消えた」というノンフィクションルポルタージュ
は、鑑定士としてだけではなく市民としても是非とも読んでおきたい書であ
ると思い再び紹介します。
 同書は、青森県下北半島六ヶ所村にあって今は廃村となった下弥栄地区の
有為転変を克明につづるルポです。
 疲弊していた東北の農村から満蒙開拓団として中国東北部に国策として送
り出された人々が、敗戦と同時に国家に見捨てられ、ようやくの思いで帰国
し、再び開拓農民として入植した六ヶ所村下弥栄地区で苦労の果てに農業で
生計が立つようになるまでの労苦が記述されます。
 そして、開拓民が酪農に活路を見いだした頃に石油コンビナート基地誘致
の地上げの渦に巻き込まれ離村していった顛末が語られます。
 六ヶ所村下弥栄地区のおかれた状況は、特別に悲惨なものでしょう。
しかし程度の差こそあれ、開発という美名の元で、営利追求を国策とする国
家とむつ小川原開発株式会社に勢揃いするような錚々たる企業群によって引
き起こされた事象は全国に散在しており、バブルが終わり長期地価低落に苦
しむ今こそ改めて検証されなければならないと考えます。
 同書に扱われている事柄は重いものですが、筆致は滑らかであり一気に読
めます。是非とも一度お手に取ってみてください。
同書についてはGoogleで「本田靖春」で検索してみてください。
http://www.google.co.jp/
 同書のあとがき及び解説 (内橋克人)から、一部を引用紹介します。
・・本田靖春著作集・「村が消えた」あとがき及び解説よりの引用・・・
「私がいう日本人とは、おのれの属する集団の枠組を越えて意識が拡がるこ
となく、もっぱらその中での情緒的な一体感を強調しているタイプの人間で
ある。
 視点をかえれば、エモーショナルな集団への帰一の要請を苦痛に感じるど
ころか、そうなることに喜びさえ覚えている個々の成員として、彼をとらえ
直すことも可能である」
「県入会における愛郷心、同窓会における愛校心、企業における愛社精神と
いったようなものは、多くの場合、偏狭な排他性の表れであるのだが、大方
の日本人はそれを美徳と信じて疑わず、「場」の社会を中心にもたれ合って
生きている自分たちの奇妙さに、いまもって気づいていない。」
『注釈の必要もないでしょう。集団への帰属意識のみが高すぎて、異端を排
除する傾向のみ強く、ひたすら同質性を求めるという変わらない日本人気質
を見事にあぶり出している文章です。』(茫猿)
「いま、国境周辺にさすらうおびただしい数のアフガニスタン難民の姿は、
そのまま昭和二十年八月十四日正午のころを境に、国家から見捨てられ、大
陸をさまよい果てた満蒙開拓団の人びとの極限の苦難に重なる。」
『同胞すら見捨てる日本という国は、先進諸国中で最も難民に冷たい国だと
いう。北朝鮮拉致事件に対する政府の無策さも、その延長線上にあるのであ
ろう。』(茫猿)
「赤い夕日の満州、満蒙開拓団、国民学校、奉安殿、出征兵士、軍国少年、
少年兵、幼年倶楽部、少年倶楽部、名誉の戦死、英霊。
 私たちにとって、すべてはいまだほんの昨日のことに過ぎないからだ。」
『50年余も前のことと言うか、それとも高々50年前のことと言うかに、
懸かっていることでしょう。忘れやすい日本人気質でしょうから』(茫猿)
「農村恐慌から札束乱舞する高度成長の日本と、満州移民、そして戦中・戦
後の満蒙開拓団の日々との、両世界の間をひっきりなしに往き来し、ついに
は冬枯れのなかに無人となって絶えた上弥栄村の巨大な石油化学コンビナー
トの造成という経済大国の推し立てた表看板の行き着く先、いまはスローガ
ンにスリ代わって、石油備蓄タンクと核のゴミ処理・リサイクル基地という
看板がその地にはためいている。」
「その情景をもって『村が消えた』を終わらせた著者は、最後を次の言葉で
結んでいる。「上弥栄の人びとの大多数は、農民としては滅んだ。それを仕
向けたのが『国家』だとして、いったい『国民』とは何であるのだろう」
「再びの日本」として彼らを受け入れた六ヶ所村は、それから二十七年を経
て入植者たちを放遂し、さらに二十八年余を隔てて、いま、核燃料廃棄物再
処理基地と石油備蓄基地へと姿を変えて、その地にある。
 問われているのは日本経済の総力ではなく日本経済を貫くべきはずであっ
た経済倫理の軽重である。」
『巨人軍は永遠に不滅ですと言った方がいました。スポーツチームを軍と表
現するのにも抵抗があるが、会社は永遠ですとか、お家大事とか言う事大主
義がどれだけ社会を曲げてきたか。最近の食肉不正表示問題の根っこも、矮
小なお家大事感覚が引き起こしてしまったことであろう。個人の尊厳という
もの、市民・住民にとって国家とは何か、ナンデ有らねばならないかという
問い掛けが置き去りにされる不幸を強く意識しなければならないと考える』
(茫猿)
・・・・・・・本章終わり・・・・・・・

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