生活保守主義

【茫猿遠吠・・生活保守主義・・04.07.23】
 鑑定業法を改正して鑑定士法へと云う論旨をサイトで展開していると、様々なご意見を伺う機会が増えてきています。
 まさに様々なご意見が存在しているのでして、今の段階で整理分類するには些か時期尚早と云えますが、耳にする多くのご意見は茫猿が予想している範囲を超えるものではありません。
1.理想主義
 不動産鑑定士という専門職業家が存在する原点に立って考えれば、士即業であるべきであり、鑑定業者という存在を今に至っても容認する必然性も根拠も認められない。士即業と明確化し、法の定めるところにより士会を設立し、士会加入をもって士登録とする。それ以外に有り様はない。
2.現状肯定主義
 現に鑑定業者として十年、二十年、三十年の歴史と実績と社会的認知を得ている存在を否定されることは容認できない。何よりも、現状において何の不都合もないし、逆に鑑定業者(商業法人)と鑑定士(専門職業家)の併存という現行制度は他の資格者からは羨ましがられる位の良い制度である。
3.生活保守主義
 専門職業家の制度として、士即業は理想であるのかもしれないが、私はこのままでよいし、今頃変えなければならない理由が理解できない。
また、変わることによって、営々として積み上げてきた個々の事務所(商業法人)の実績や存在感が雲散霧消する危険を秤にすれば、現状を変更するリスクはおかせない。単に鑑定士一人だけの問題であればともかく、事務所のスタッフ全員の生活を危険にさらす訳にはゆかない。
 いずれも、「ゴモットモ」といえる考え方なのでしょう。
ここで思いますのは、不動産鑑定士も今の日本社会の一員であり、社会の風潮とか底流といったものを離れてはあり得ないと云うことです。
鑑定評価制度が発足した時の理想主義、あるいは在るべき姿論といったものは、四十年間の時の経過とともに、歴史的に積み上げられた現実がもたらした呪縛を越え難いと云えるのでしょう。
 別の云い方をすれば、越える決意をするに足りる誘引力が必要なのだと考えます。理想主義はともすれば原理主義に陥りやすく、大勢を吸引するには大きな努力を必要としますし、ともすれば少数派の消耗戦に陥る危険が高いのです。
 積極的現状肯定主義は鑑定業としての商業主義を正面に据えるものであり、ある種の潔ささえ感じます。しかし、これも多数派を形成するには至っていないと感じます。
 生活保守主義は、今の日本社会を覆っている風潮なのであり、底流なのでしょう。多くの鑑定士もその範疇外ではあり得ないと云うことでしょう。
しかしながら、櫛田光男氏の古典的名著「不動産の鑑定評価に関する基本的考察」を紐解くまでもなく、鑑定士としての矜持に照らす時、なにがしかの後ろめたさをぬぐい去ることはできないのではないでしょうか。
 話は飛びますが、自衛隊と憲法九条、そしてPKOとイラク派遣、ついには事実上の多国籍軍参加に至ろうとしている、この問題も根幹を論じることなく表層処理に追われてきた結果なのだと思います。
 年金問題でも国民年金も厚生年金も公務員共済年金も私学共済年金もそれぞれが歴史的所産を積み重ねているから、統合は言うに易く行うに難しとなってしまっているのでしょう。
 四の五の言わずに議員年金廃止統合から始めなさいと云うことです。年金の徴収も統一も簡単なことで、所得税割合で徴収すれば済むことです。税負担の不公平や課税漏れを云う人々がいますが、問題の次元が違うというのです。所得税に統一してしまえば年金集金コストは安くなりますし、それなりの公平さが実現します。勿論、主婦や学生など無収入者(非課税者)は基礎年金のみになりますが、離婚した後の年金受給権の配分は別途考えればいいことです。
 何よりも仕組みを単純にし、コストを低くするということを優先すべきでしょう。余った社会保険庁職員は脱税者や課税回避者を探す仕事を用意すればいいのだろうと考えるのです。
 先日、お亡くなりになった碩学森嶋通夫教授(小生と姓は少し似ていますが、何もご縁はありません)が、唱えられた非武装論・非戦論を思い出します。
氏が英国に赴かざるを得なかった理由の一つは、この非武装・非戦降伏論にあったのかもしれません。土井たか子氏は、非武装中立論から論旨を展開できなかったことが、結果的に社会党を解体消滅させてしまったと茫猿は考えています。
 不動産鑑定において、業と士の問題を論じる時に決して忘れてはならないのは、制度創設後四十年余を経過した歴史が背景にあり、好むと好まざるとに関わらず、現在はその歴史の展開に他ならずと云うことであろうと思います。
 同時に、さればこそ今、鑑定士の存在を如何に位置づけるかが明日を反映するものとして問われなければならないと考えます。
鑑定評価には「ザインかゾルレンか」という、神学的とも云える長い論争がありました。最近は決着がついたとも云われますが、茫猿は今に至っても永遠の課題であり、鑑定士たる者、常にその心底において問い続けなければならないと考えています。
 士か業かという問題も、一見すると同様なところがありますが、この問題は不動産鑑定評価の学問的課題なのではなく、世俗的な態様を如何に整えるかということなのであり、外形的基準を整え、李下の冠・瓜田の沓の誹りを受けないことにその第一義があると考えます。
 そして、そこからもたらされるものに、鑑定士が希望を抱くことができるか否かにかかっていると考えます。
 そういった意味では、読者各位に真摯に考えて頂きたいと思います。
自身の不動産鑑定士としての根元的な存在意味(意義)・アイデンティティを問い直す夏休みにして頂ければと、不遜にも思うのです。

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