我が陋屋の窓から、もう葉を落としてしまった鄙桜越しに眺める、この日の出前の景色がとても好きです。 ただ今午前六時、あと15分もすれば、今日の朝陽が昇ってくるでしょう。
夜明け前が一番暗いと申しますが、この日の出前のひとときは、今日はどんな一日だろうか、今日も佳い日であれと願う気持ちとが混ざり合って、なにやら敬虔な気持ちになります。 庭に立って、昇ってくる朝陽を身体一杯に浴びると、心身共に健やかになるような気がするのです。
五分経過して、空は明るくなってきました。 これから戸外に出て、読者の皆様にも、今日一日が善き日でありますよう祈念致します。
《忘れると云うこと》
ひとは記憶することもできるが、忘れるという特技も持っている。 ひとは忘れるからこそ「ひと」なのだとも思える。 思い出すと、娘が亡くなった当座は車のシフトノブに数珠を常にかけていた。 仕事のあいまに神社仏閣を見かければお参りして、菩提を祈っていた。 しかし、それも何時のまにやら日常些事にかまけて行わなくなっていた。
父母が亡くなって二年半、祭壇に安置した遺骨の前に花を欠かすことはなかったが、納骨してからは花も間遠になり、思い出すことも少しずつ間隔が空き、思い出す事柄も亡くなる前後のことは少なくなっている。 ひとは忘れることによって、前に向かわされているのだと思わされる。
加齢は記憶力を減退させる。 物忘れがひどくなったと嘆くものであるが、忘れることは悪いことばかりでもない。 悪い記憶、辛い記憶を忘れさせ、たぶん辛い記憶だからこそ忘れようとさせるのであろう。 そして、好い記憶だけが残されてゆくから、思い起こす過ぎし日々は懐かしく心地良いものに変わってゆくのであろう。 そう思うと、加齢も忘れることも、悪いことではなかろうと思うのである。
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